山形人にとっての高橋由一

近代洋画の開拓者高橋由一

おそらくこの展覧会の中心的な企画者なのだろう、芸大の先生である古田亮さんの高橋由一―日本洋画の父』*1を読んで、万全の体制で観に行った。本当は昨日の昼休みに行く予定だったが、外に出てまもなく強い驟雨に見舞われ、断念した。今日の昼休みも雨降りには変わりなかったが、まだそれほどの降り方ではなかったので、昼休みを少し長めにとって、芸大まで歩いて行く。
古田さんの本で学んだことは多い。明治の洋画というと、黒田清輝がまず思い出される。彼が先駆者という認識だ。そうなると、それより以前に油絵を描いた高橋由一はどうなるのか。どちらかといえば江戸時代的なにおいをひきずる画家として、高橋・黒田の間に一線が引かれていたように思われる。本書を読むと、これはまったくの誤りであることがわかる。高橋由一こそ、歴とした「日本洋画の父」なのだ。しかも高橋の果たしたは、たんなる実作者にとどまらない。弟子たちを育てる教育者であり、洋画というジャンルを日本に普及させようとしたプロデューサーでもあった。
ところでわたしは山形に生まれ育った。山形の人間にとって、高橋由一はなじみ深い人物である。初代山形県三島通庸に招かれ、山形市街図や栗子隧道の絵を描いた画家として、郷土の歴史のなかで教わった。三島通庸は、福島県令として河野広中らを弾圧した福島事件の中心人物である。「中央の歴史」はそういうところで彼の名前が登場する。しかし山形県人にとっての三島は、「土木県令」と呼ばれ、山形とその周辺地域を結ぶ道路を開発し、近代の山形を造った偉人的人物として、子供のころから名前を刻みつけられることになる。だから「中央の歴史」に登場する三島の像を知ると、山形県人としては違和感をおぼえざるをえない。そうした郷土史教育を受けたとはいえ、「中央の歴史」に毒されるにつれ、三島を見る目は厳しくなってゆく。そして、青山墓地にある、他を圧倒するあの巨大な墓所を目の当たりにすれば、明治官僚としての示威に辟易してしまうのだが。
高橋由一は、三島に招かれ、三島が建てた山形県庁を中心とする市街図や、栗子隧道などの絵を描いた。悪くいえば、高橋を利用してみずからの功績を喧伝したということだろう。今回の展覧会では、福島・栃木県令を兼ねていた三島が高橋に委嘱して描かせたという「道路写生帖」の下絵と石版画もずらりと展示されており、壮観だった。ここには山形・福島・栃木三県の道路を中心とした風景が描かれており、これらシリーズは、明治前期のこのあたりの景観を知るうえで、とても貴重な資料となるのではあるまいか。たとえ三島が鬼県令として悪評高いとしても、高橋由一にこうした絵を描かせたという文化的功績だけで、じゅうぶん歴史に名を残すに値する。
子供の頃何度も目にしたはずの「山形市街図」の現物を目にできたのは、山形人として素直に嬉しかった。また「道路写生帖」のなかでは、「東置賜郡赤湯村新道ノ内字鳥上ヶ坂ヨリ米沢地方并ニ赤湯沼ヲ望ム図」がいい。山形から米沢に向かうとき、山を抜けて米沢盆地に入ろうとするところに眼下に広がる盆地と湖(「赤湯沼」とは今でいう「白竜湖」のこと)の現在の光景と、高橋の石版画があまり違わないので、感動的ですらある。
高橋由一といえば「鮭図」。この展覧会では三点が並べられていて面白い。芸大が所蔵する重要文化財の「鮭図」もいいが、板に直接油絵で描かれ、板目もそのままになっているため、まるでだまし絵のように、板の上に本当の鮭が載っているかのような印象を与える「鮭図」(笠間日動美術館所蔵)もいい。
そして意外に良かったのが風景画だった。隅田河岸の桜を描いた「墨堤桜花」や、その場所の雪景色を描いた「墨田堤の雪」、夜景を描いた「月下隅田川」が素晴らしい。「月下隅田川」は、金刀比羅宮の小襖に描かれた絵である。今回の展覧会では、この「月下隅田川」を選びたい。
絵画作品以外の由一関係資料も展示されていた。なかでも、『高橋由一油画史料』が圧巻である。由一自身が執筆した画業にかかわる願書や覚書、草稿のたぐいが綺麗に貼り継がれて折本仕立てになっている。江戸川乱歩による『貼雑年譜』を思い出した。
チラシなどのタイポグラフィとして、「画」のなかに「由一」の字が含まれていることを示すため白字にそこだけ赤くするなどの遊び心も洒落ている。