仕事と趣味

奥絵師・木挽町狩野家

「趣味と仕事(食べていくための職業)が一致する人はしあわせだ」とよく言われるが、わたしはそれに同意しかねる。
以下はあくまでわたし個人の例にすぎないことをおことわりしておく。たとえばわたしは本を読むことが好きだ。「趣味は何か」と問われ、かならず答えなければならないとき、面白味はないが、奇をてらうことなく「読書」と答えるだろう。また、ここにこうして書いているように、その感想を文章に書くこともあまり苦にしていない。
しかしながら、たとえば、原稿料を払うから、ふだん趣味で読んでいるような本を読んで、ここに書いているようなことを文章にしてくれと頼まれたばあい、ふだんどおり読書を愉しめるだろうか。たぶん愉しめないと思う。
先日とある地方新聞から寄稿を求められた。旧冬上梓した拙著に関連して何か書いてほしいということであった。そこでわたしは、松本清張のとある長篇を取り上げ、拙著とからめた文章を書いた。結局その原稿は先方の都合で没になってしまったのだけれど、それでいいと思っている。というのは、その原稿を書くため清張の長篇を読み直していたのだが、さっぱり面白さを感じなかったからだ。何かの義務を果たすために、それまで趣味で読んでいたような本を読むことは、わたしから読書の愉しみを奪ってしまいかねない。やはり何の見返りもなく、ただ愉しむために本を読むのが(趣味生活を送るのが)望ましい。
おなじように、美術館で絵を観ることも好きだ。しかしわたしの絵の見方は、描き方がどうといった学問的研究的な見方ではなく、ただたんに美術館という空間にひたり、「いい絵だなあ」と思いながら愉しむだけである。
ところがこれから、仕事で江戸時代の狩野派の絵を勉強する必要が出てきた。ちょうど板橋区立美術館で、その対象となる江戸幕府に仕えた奥絵師木挽町狩野派の展覧会をやっていると同僚に教わり、さっそく観に行った。これからは彼ら江戸の狩野派の絵について、人物や樹木や川の描法など、そういったところを気にして観なければならなくなるかと思うと、それが趣味でなくなってしまうことになり、とても寂しい。
今日のところは木挽町狩野派のどこを観ればいいのかといった視点をまださっぱり身につけていないので、いままでどおり漫然と「いい絵だなあ」と愉しめたのだけれど、これから勉強して知識を身につけるたびに、「いい絵だなあ」と観ることが許されなくなるだろう。知識を身につける嬉しさを得る反面で、趣味の愉しみが奪われる。どちらがいいのか。
今回の展覧会は観覧無料。展示スペースの一部が畳敷きとなっており、その三面に狩野派代々、および河鍋暁斎が描いた屏風が立てられている。それぞれの屏風の前に座布団が置かれ、そこに座って屏風を間近に観ることができるという趣向。素晴らしい。
狩野派といえば桃山時代における狩野永徳の障壁画に指を屈し、その後の狩野派は幕府の御用絵師としてその輝きを失っていったといったような印象を抱きがちだが、代々一人ひとりの事跡を知り、画業を知ると、それぞれユニークであり、観ていて面白いと感じるのだから、こういう展覧会は貴重である。
狩野派作品について、今後もできるだけ素人として接していければいいのだが…。