「白清張」で乗り過ごす

男たちの晩節

松本清張と言えば「黒」というイメージがある。作品名に『黒い…』と名づけられたものが多いからだけでなく、作品の内容を色彩にたとえても同じだ。文春文庫の背の色の印象が強いのだろう。
実際のところ自分の場合、清張作品は文春文庫より新潮文庫で読んでいる作品が多いと思われるのだが、新潮文庫の臙脂に近い赤でなく、なぜか黒がイメージされる。やはり書名と相まって黒のイメージを読者に与えるものとみえる。
角川文庫から新しく清張作品のアンソロジーが発売になった。「昭和30年代粒ぞろい短篇集」と名づけられた3冊シリーズで、双葉文庫の単行本未収録作品集とも異なるコンセプトで、時期を絞り、内容別にして名作ばかりを集めたものだ。
その表紙デザインが、従来自分が清張作品に抱いていたイメージカラー「黒」と正反対の「白」であり、情念が澱んだような重苦しさがなく、すっきりとしたものだったのに意表をつかれ思わず新刊文庫の平台から手に取り、そのまま買ってしまった。松本清張『男たちの晩節』*1(角川文庫)がそれ。表紙の装画は恩地孝四郎、デザインは鈴木成一デザイン室によるものだ。
しかし読んでみるとやっぱり「黒」。これぞ清張という悪意の塊のような、情念が澱んだような暗い作品のオンパレードで、そんな清張作品が大好きなわたしとしては心の底から堪能した。
『男たちの晩節』という書名にぴったりの、定年になったり、会社勤めが長いものの出世競争に乗り遅れたりしたサラリーマンなど、そろそろ人生の終着点が見えはじめた男たちを主人公にした作品ばかりが収められている。収録作品は「いきものの殻」「筆写」「遺墨」「延命の負債」「空白の意匠」「背広服の変死者」「駅路」の七篇。惹句どおり粒ぞろいで読ませる作品ばかり。
このうち「空白の意匠」「駅路」は再読になる。しかしそれでも面白い。とりわけ「空白の意匠」は、先日ドラマ化された「地方紙を買う女」*2と並ぶ傑作だと思う。再読ながら、仕事帰りの電車のなかで夢中になって読み、ラスト一行の強烈な余韻にひたりながらふと気づくと、電車は降りるべき駅にとうに着いており、ドアが閉まりかけていた。
慌てて飛び降りることはせず、悠然と次の駅まで乗り過ごし、折り返しの電車で一駅分戻ってきた。電車で読書に夢中になり乗り過ごしてしまったのは、宮部みゆきさんの『淋しい狩人』(新潮文庫)以来だろう(→旧読前読後2002/10/30条)。
乗り過ごす原因となった「空白の意匠」についてはすでに初読のおり触れているので(→2003/6/26条)いいとして、今回読んだなかでは冒頭の「いきものの殻」がとにかく凄絶で身震いした。
総務部長で会社を停年になった主人公が、毎年一度開かれる会社のOB会に出席するという物語。受付の若い社員が自分の顔を見てもわからないことを恨む。そんな会にこなければいいと思うのだが、この会に出席できるのは停年時次長以上の者という特権意識を喜びたいのと、新入会員(すなわち定年になった元同僚)の顔を眺めるのが好きなのでやめられないという人の悪さ。
主人公は在職中総務部長の椅子をめぐり争った元同僚の顔を見つけほくそ笑む。元同僚は主人公が退社したあと活躍し、業務局長までのぼりつめた。しかし重役になることなく停年を迎えたらしい。
OB会で見たライバルの表情は、彼が知っているような元気が感じられず、精彩がない。向うも自分がいることを意識しているはずだが、挨拶に来ないのは、自分に負い目を持っているからなのだろう。「あれほど、ばりばりと活躍した男が、今は老いた落伍者の群れの中に墜ちて来た」ことを思って、心が安らぎ愉快になる。ああ、なんて人が悪いんだ。しかもリアリティがある。でもこんな悪意に満ちた小説が愉快でたまらない。
谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』を思わせるような老人の性の問題を扱った「筆写」もなかなか面白い。日本近代史の大学助教授である実の息子と嫁から相手にされなくなった元校長の主人公。しかしある日息子から大逆事件関係資料の筆写を頼まれ、それを写しているうち性欲が沸いてきて女中に色気を出す。
とりたてて外見的にも魅力を感じなかった女中の存在を意識し始めてから、少しずつ好意を持ちだし、女性として見るようになって、筆写した内容に欲情して…というプロセスが細かい。
「空白の意匠」同様ラストの冷淡さが余韻を放つ「延命の負債」、そしてこれから自殺しようとする男の独白のかたちをとった「背広服の変死者」。とりわけ後者は、地方の大きな新聞社の広告部に勤める男が、窓際に追いやられ出世の見込みもなくなった閉塞感から自殺を決意するというもので、驚くべきことに年齢は38歳。「人間も三十八になれば恥も外聞もなくなる」とか、三十五歳で停年に対して漠然たる不安を持つようになったというあたりのリアリズムに虚をつかれた思いだった。
郷原宏さんの解説では、清張は短篇作家だったとあった。これはわたしも否定しない。すばらしい着想、気づきもしなかった人間の暗部を深く抉った視点の作品はいつ読んでも感心するのだが、短篇作家にしては「筆写」にせよ「背広服の変死者」にせよ、気が抜けたような結末になっている作品があることも否めない。
どなたかも何かで書いていた(言っていた)ような気がするが、冷淡にして切られるような鋭さをもったラストの作品があるいっぽうで、着想のみで根気が続かなかったような作品があるのも事実。そんな出入りの激しさもまた清張の魅力なのだろうか。

*1:ISBN:9784041227596

*2:面白くないわけではなかったけれど、短篇を無理に2時間ドラマにしたため、作家(高嶋政伸)と犯人の女(内田有紀)のラブロマンスが盛り込まれて、ちょっぴり不満だった。