本当に一瞬だけ

兵隊やくざ」(1965年、大映
監督増村保造/原作有馬頼義/脚本菊島隆三勝新太郎田村高廣淡路恵子/内田朝雄/山茶花究成田三樹夫/北城寿太郎/早川雄三/仲村隆

兵隊やくざ」と言われれば思い出すのは、鹿島茂『甦る昭和脇役名画館』*1講談社)での成田三樹夫論だ。たまたま村松友視雷蔵好み』を読んで、市川雷蔵大映でのライバル勝新太郎への関心が芽生えてきたおりもおり、日本映画専門チャンネルでシリーズ全9作品放送という機会に恵まれたので、さっそく録画する。兵隊やくざ DVD-BOX 上巻
鹿島さんは前掲書のなかで成田三樹夫を論じるにあたり、その前提として彼が頭角を現わすきっかけとなった「兵隊やくざ」を取り上げ、まずその主役二人、すなわち勝新太郎田村高廣コンビ(とその関係)について詳細に論じている。映画を観てからあらためて鹿島さんの本を読み返すと、委曲を尽くす、正鵠を射るとはこのことを言うのだというほど、自分の抱いた感想がピタリと言い表されている。
まず鹿島さんはプログラム・ピクチャーにおける俳優(もしくは役柄、路線)の重要性から説き起こし、東映、日活、大映といった各映画会社ごとに例示してゆく。その過程で、俳優が熱狂的なファンを獲得するためには、パーソナリティーと役柄だけでは足りないことを明らかにし、それが「エロティシズム」(男同士のエロス)であると指摘する。
そこで東映(たとえば高倉健)以外に男性映画ファンを魅了するほどのエロスを発散した人物として勝新太郎をあげ、おもむろに「兵隊やくざ」論へと入るのである。
満州ソ連国境地帯にいる部隊に初年兵としてやってきたのが勝新太郎。どの部隊でも手を焼くほどの暴れ者で、彼の指導係に命じられるのが、インテリ上等兵田村高廣。田村は下士官昇進もあえて望まず、ひたすら兵役解除を待ちわびる三年兵なのである。
物語はインテリ田村と暴れ者勝の凸凹コンビが陸軍内の不条理に立ち向かう、胸のすくような内容だった。鹿島さんはこの二人に「ホモ・ソーシャル」関係(ホモ・セクシュアルではないが、そこにエロティシズムが介在する関係)を見出す。暴れ者勝がなぜか上官田村にだけ従順で言うことを聞く。でも実際は田村が勝のエロスにぞっこんまいっており、観客は田村という代理人を通して勝とホモ・ソーシャルな関係を取り結んでいるというのである。
実際暴れ者だが憎めない、すっきりとした格好の良さではないのだがその存在に憧れを抱かせるような勝新太郎を見ると、自分も田村高廣のような立場でこのような暴れ者と上下関係を持ちたいと思ってしまうのだ。ラスト田村に脱走を迫るところでは、完全に攻守逆転、田村高廣が勝の命令に従うときの嬉しそうな雰囲気。
丸顔でずんぐりとして、ならず者なのだけれど、慰安婦淡路恵子のところで眠っている姿を見ると親指をしゃぶっている。これでは男だけでなく、淡路恵子を通して女性の母性本能までくすぐるのではあるまいか。まったく素晴らしいキャラクターだ。
さて肝心の成田三樹夫だが、あまりにも鹿島さんの文章の印象が強烈なので、映画を観て拍子抜けした。この第一作での出演場面はたった二シーンのみ。ラスト近くでは、注意して観ないと成田本人だと気づかないかもしれない。
もちろん鹿島さんは本のなかで「時間にして一分にも満たない出演場面にもかかわらず、観客は、この成田三樹夫憲兵(伍長)の圧倒的な迫力に固唾を飲むことになる」と正確に書いているのである。鹿島さんが成田を語る「圧倒的な迫力」による幻想で、成田三樹夫に対する意識が高まってしまったらしい。

長身の引き締まった肉体。いかにも強烈な意志の力を感じさせるアゴ。睨みつけるだけで相手を縮みあがらせる鋭い眼。大きく尖った鼻の下で真一文字に結ばれた口。険しい断崖のように張り出した額と落ちくぼんだ頬の落差。しかも、これらすべてに一切の無駄な肉が張り付いていない。
 それは、鍛え上げられたアスリートのエロス、いな、SFの中でのみ可能になる鋼鉄の戦士のエロスというべきである。(348頁)
くどいほどの賛辞が連ねられ、手放しでの褒めようである。鹿島さんによれば成田三樹夫は第三作、第五作に登場するという。とりあえずそこまで観てゆくことにしよう。