本を読んで人生を考える

連休前に新刊本(といってもすべて昨年出た本だが)3冊を購った。それらすべてをこの連休中(しかもまだ二日目だ)に読み終えてしまった。めずらしいことである。「買った本すべてを読むわけではない」。本好きにとってしごくあたりまえの原則だが、実際読み終えられるのなら、それにこしたことはない。買った本は次の3冊だ。

金魚のひらひら

京都御所西 一松町物語

郊外はこれからどうなる? - 東京住宅地開発秘話 (中公新書ラクレ)
気になったことがある。この3冊いずれにも挿入物がなかったこと。栞はもちろん、読者カードのハガキ、新刊案内のリーフレットがない。杉山さんの本は上製本なのでスピンはあるものの、わたしはスピンは使わない主義なので、栞がなければハガキや新刊案内などで代用している。しかし今回は何もないので、書店で新刊を購入したときなどに付けてくれるストックしていた紙栞を使った。最近こういう本が多いように思うのは気のせいか。ハガキにせよ新刊案内にせよ、挿入物がなくなっているのは不況のせいなのだろうか。
さて中野翠さん。中野さんの考え方にはいつもうなずかされることが多い。だから今回もまた、読みながら、「そうそう、そうなんだよな」と納得するところ、「ここは少し違うなあ」と考え方を異にするところそれぞれあることを楽しんだ。
とくに深く共感したのは、164頁から展開されている上野千鶴子さん批判。「そうだそうだ。頑張れ!」と強くエールを送りたいのだが、批判する側である中野さん(そして中野さんがよりどころとする坪内祐三さん)から見れば、わたしの立場だって「そっち側」なのだろう。でも、上野さんとわたしでは境遇に天と地ほどの差がある。自分としては「こっち側」でありたい。まあ、そう言ってわたしが中野さんたちを応援したくなるのも、ひがみにすぎないのだろうが。
杉山さんの本。書名のとおり京都御苑の西にある一松町にお住まいの京大教授(東洋史)杉山さんが、一松町という定点から古代から現代にいたる京都の歴史を見通した本。一松町というミクロの視点を掘り下げて、その場所性(地霊)を歴史のなかに位置づけるという方向を期待していたのだが、時々視点が一松町から離れ、たんなる京都の歴史になりそうになる。何とか「京都御所」というポイントで踏みとどまっている感じ。古代や信長・秀吉の時代を述べたあと、一気に時代が飛んで明治維新になってしまうのも残念。江戸時代の一松町がどんなところであったのかも知りたかった。史料も多くあるだろうに。
杉山さんは京大卒で京大の先生。東京における東大の先生の存在感のなさとくらべ、京都における京大の先生という立場がすこぶる大きい(顔がきく)という話を聞いたことがある。しかし杉山さんは静岡県のご出身で、本書のなかでもたびたびみずからを「東夷」と称して、生粋の京都人ではないよそ者であることを強調している。ここに京都という町の特殊性があるのだろう。
大学受験のとき、併願していた京都の某私大に合格した(もう一つ受験した東京の某私大には落ちた)。もし国立大学に合格しなければ、京都で暮らすことになっていた。その頃は京都で日本史の勉強をすることは憧れでもあった。そうなっていたら、現在の自分とは違う人生を過ごしていただろう。よそ者であることをくりかえし書かなければならない京大の先生の文章を読み、ふと、人生の分岐点ということを考えた。『蒲生邸事件』を読むと、受験のために田舎から上京して東京のホテルに宿泊したときの心細さを重ね合わせていたことも思い出した。
三浦さんの本を読んでも人生を考えさせられた。わたしにとってバブル期はちょうど大学生であった。もし十年から二十年ほど早く生まれ、その頃東京に住み、おなじ職場に勤めていたら、今のような住環境を得ることができていたのだろうか。無理だったろう。
かといって、いまの世の中にいまの立場で生活していることも苦しい。十年から二十年ほど早く生まれていたら、だいぶ待遇は違っていたかもしれないと思うこともある。だいたい生涯賃金は格段に違ってくる。老後も大きな差がつくことになるのだろう。それであっても時間は過ぎていく。わたしたちは年をとり、子どもたちは成長する。しかしこの時代に生まれたことは選べないのだからしかたがない。何に対しても文句を言わず、仕事を楽しみ、読書を楽しみ、生活を楽しむしかなかろう。