横溝ブームのドキュメント

真説金田一耕助

今年は帰省をしなかったため、食っちゃ寝の寝正月であった(帰省しても寝正月には変わりないのだが)。少し身体を動かしておかないと、仕事始め後の日常生活に差しつかえるという危惧もあったので、妻と次男と三人で隣町にあるブックオフまで歩いて往復する。片道徒歩で約30分の道のりである。
ブックオフで購入したのは、横溝正史『真説金田一耕助毎日新聞社、1977年)である。105円のコーナーにおなじものが2冊並んでおり、帯のあるほうを選んだ。とくに意識していなかったけれど、帰宅後奥付を見ると初版だった。
この本は角川文庫版をほぼリアルタイムで読んでいるはずだ。文庫版は1979年発売だそうだから、わたしは小学六年生。少なくとも中学一、二年生時点には読んでいると思う。ピンク色っぽい地色と、黒に緑色の背が特徴である横溝作品とは違って、背の色が白かったのが記憶に残る。
わたしは、親が購っていた角川文庫版『犬神家の一族』を読んで横溝ファンとなった。読書の愉しさにめざめたのは横溝作品(金田一物)がきっかけである。家に角川文庫があったのは犬神家の映画化がきっかけだろうから、わたしがこの記念すべき長篇を読んだのは1976年以降となろう。横溝作品の映画は、その後77年に「悪魔の手毬唄」「獄門島」「八つ墓村」、78年に「女王蜂」、79年に「病院坂の首縊りの家」が、81年に「悪霊島」が公開されている。「悪霊島」は封切り時に観て、「悪魔の手毬唄」「獄門島」「女王蜂」の三本は、山形市内最大の書店「八文字屋書店」の隣にあった映画館(名前は忘れた)で、中学の友人たち数人と三本立て(!)で観たおぼえがあるから、やはりわたしが横溝ファンとなったのは、小学校高学年から中学一年の頃であることは間違いない。
さてこの『真説金田一耕助』は角川文庫に次々と作品が収められ、上記のように角川春樹の手で映画化もされて爆発的なブームの渦中にあった横溝さんが自作の成り立ちなどをふりかえった貴重な証言である。横溝ファン初心者として、くりかえしひもといたように思う。
だから、「病院坂の首縊りの家」を金田一耕助最後の事件として発表したものの、これで金田一物の筆を折るのではなく、長い雌伏期間に金田一から託された資料があるので、これをもとにあと数作金田一物を書くつもりだという横溝さんの発言に、遅れてファンになったわたしなどは新作発表を渇望したものだった。『真説金田一耕助』を読み返すと、本書のもとになったエッセイ(毎日新聞日曜版連載)と平行して「病院坂の首縊りの家」が書かれ、それが完結し、次作のタイトルは「悪霊島」と言ってシャム双生児が登場する磯川警部物であると予告されているうえで、次のように書かれている。

悪霊島」を書き終わったらつぎは等々力警部物を書き、そのあと等々力・磯川両警部物を書きたいと思っている。即ち東京と岡山にまたがる大事件を両警部が、金田一耕助を扶けて解決するという趣向である。(257-58頁)
そうそう、三十数年前のわたしは、この一節に強い期待を抱いて横溝さんの新作を待ち焦がれていたものだった。新作を首を長くして待ちながら、この文章を飽きることなく何度も読み返していた頃を懐かしく思い出す。結局横溝さんは81年に亡くなってしまい、腹案がすでにあったかもしれない「等々力・磯川両警部物」を読むという望みは潰えてしまったけれど、没後金田一物の未刊行長篇「死仮面」と絶筆短篇「上海氏の蒐集品(コレクション)」が角川ノベルスから一冊として刊行され、渇を癒すかのように購入してむさぼり読んだものだった。
今回『真説金田一耕助』の単行本をブックオフで見つけ、棚から引きだしてめくってみると、エッセイ各回にはさまれるかたちで、二段組の「昭和五十一年八月二十二日〜昭和五十二年八月二十日の日記抄」なる記録が収められていることに気づいた。「はて、こんな日記、文庫版で読んだかしらん」と訝ったわたしは、105円という値段でもあるので、ひとまず買っておくことにした。
帰宅後調べてみて、この判断が正しかったことがわかった。やはりこの日記は角川文庫版未収録であり、そのため今回購った毎日新聞社刊の元版は古本でも結構な値段で売られていた(2000〜5000円ほど)のである。しかも買ったのは初版帯付だから得をした。べつにわたしはこれを転売するという趣味はない。せいぜいそういう本を自分の嗅覚で安く見つけられたことに自己満足をおぼえるだけだが、「こいつあ春から縁起が良いわえ」とほくそ笑んだ。そしてせっかく買ったのだから、懐かしさを感じつつ読むことにした。
そもそも本文自体、長く世間から忘れ去られていた探偵作家が、文庫化と映画化によって自分でもわけがわからぬままに大ブームとなり(そのうえ勲三等瑞宝章まで受章する)、戸惑いつつも熱狂的に受け入れられた自作の誕生秘話を語るというブームのドキュメントとなっているのだが、併録されている日記は、そのエッセイが書かれ、および「病院坂の首縊りの家」執筆や「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」が映画化されていくという、まさにおなじ時期のものなのである。ブームの裏側のみならず、そのまた裏側の記録まで収められているのだ。
その「裏側の裏側の記録」が実になまなましい。角川文庫の重版とその部数が克明に記される。毎日のように、万単位、いや十万単位の増刷報告が到来する。一年間で一千万部売れたという空前のブームがこの数字でよくわかる。それを考えれば万単位の増刷など、たいした数ではないのだ。75年の課税所得1億2000万に対し、76年には3億2000万になっていると包み隠さず記し、増刷にともなう印税は翌年の税金納入のためそのまま「凍結」するなどとも書かれている。「犬神家の一族」ヒットによりすぐさま次作「悪魔の手毬唄」が企画されたとき、東宝から原作料として150万が支払われたともある。のちこのときの契約はいったん解約され、あらためて角川春樹事務所と契約を結んで、原作料も50万上乗せされたとある。映画化の原作料200万、高いのか安いのかわからない。老作家が精神安定剤とお酒にたより、苦しみながら「病院坂の首縊りの家」を書き進めていった執筆の裏事情もリアルであり、どのように横溝ブームがふくらんでいったのかを知る貴重な史料だ。
当の横溝さんは、自作がブームになっていった経緯について、こんな推測をしている。
昭和四十五年以前なら、私に勲章をというような話は、まず絶対に起こりえなかったであろう。私はそれまで十年ちかく世間から完全に忘れ去られていた存在である。
ところが昭和四十五年、私の作品のうちこれはと思うものを集めて、某出版社が全集と銘打って出版した。それが思いのほか好評を博し、そのことが呼び水となったかして、私の作品が順次別の出版社から文庫本として出はじめた。それが圧倒的な売れ行きを示し、数年間に五百万部突破、一千万部突破というように、小心者の私にとっては気の遠くなるような数字を示した。(「勲章を貰う話」)
ここに出てくる「某出版社」が『横溝正史全集』を出した講談社、「別の出版社」が角川書店である。横溝さん本人は、ブームのきっかけを、講談社の全集にあると考えている。講談社の全集は1970年(昭和45)に出た黒い函に入った10冊本のものである。この装幀は、それに先駆けておなじ版元から刊行された『江戸川乱歩全集』(全15巻)と共通している。この乱歩全集は、1965年(昭和40)に亡くなった乱歩の没後最初の全集であり、1969年から70年に刊行されている。
横溝全集、乱歩全集の刊行は一部重なっていると思われるが、横溝全集は、乱歩全集の売れ行きによって企画されたのではあるまいか。つまり横溝ブームの原点をさかのぼれば、横溝全集であり、乱歩全集であり、さらに乱歩の死であったということになる。
とはいえ、読者側にそれらを受け入れる素地があったことも考慮に入れなくてはならないのだろう。たぶん70年前後の桃源社を中心とした伝奇・幻想文学ブームと連動していたと思われるが、これらの解明はしかるべき専門家(文学者、思想家)の手にゆだねよう(あるいはすでにそういう評論があるのかもしれない)。
ところで、ウィキペディア「横溝正史」項を見ると、横溝ブームの火付け役として、1968年に講談社の『週刊少年マガジン』に連載されていた影丸穣也の漫画(劇画)「八つ墓村」があげられている。この説の根拠が何なのかわからないけれど*1、結局「八つ墓村」の漫画化も、伝奇・幻想小説のブームも、おなじ土壌から生まれてきたように思えてならない。
興味深いのは、今回入手した単行本版『真説金田一耕助』収録の日記(昭和51年12月5日条)に、講談社より劇画「八つ墓村」1五冊、これなんの予告もなく、明日抗議をせばや」とあること。これが影丸作品に該当しよう。日記の書き方(略記の仕方)によれば、「1」(原文は丸数字)というのは初刷、五冊というのは著者献本冊数にあたると思われる。
翌日横溝さんはさっそく講談社に「抗議」する。6日条に講談社少年マガジンに電話。「八つ墓村」25,000部の由」とある。刊行を事後承諾したのだろう。さらに7日条には講談社より劇画増刷分の印税」とある。連載は68〜69年だが、ネットで調べてみると1976年に刊行されたのは講談社漫画文庫版らしい。すでに69年に単行本化されているともネットにあったが、未確認である。
そうなると、劇画化されること自体はすでに69年時点で了解済みのことであったが、76年の時点における「増刷分」(文庫化)は著者の了解なしにおこなわれ、横溝さんはこれに抗議した(そして追認した)ということになるだろうか。影丸作品のヒットを受け角川春樹が横溝作品の文庫化、映画化に踏み切ったことが事実だとしても、そうしたいきさつは、横溝さん本人の認識にはなく、したがって自身は全集がそもそもの原点だったと考えていたということだろう。
横溝ブーム発祥の歴史について、横溝正史本人の証言があまり重視されていない。それでいいのだろうか。

*1:影丸穣也のファンサイトには、影丸金田一作品劇画が横溝ブームの火付け役となったことは「有名です」とある。わたしが知らないだけか。