喧嘩を売るまでもなく完敗

誰か―Somebody (文春文庫)名もなき毒昨年末文庫に入った宮部みゆきさんの『誰か Somebody』*1(文春文庫)は、購ってそのままわたし以上の宮部ファンである妻に手渡した。妻は読みはじめてまもなく、既読であることを悟った。ということは、単行本でも購い、わたしは未読のままいまでも本置き部屋のどこかにあるのかしらん。
木村晋介さんの『キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る』*2筑摩書房、→1/8条)では、同じ宮部さんの名もなき毒*3幻冬舎)が取り上げられ、非の打ち所のない作品で完敗であると白旗をあげていたのが印象に残っていた。他の宮部作品についてもことごとく好意的で、宮部ファンとしては嬉しかったのである。『名もなき毒』は、『誰か Somebody』に登場する主人公杉村三郎が引きつづき探偵役というか狂言回しとして重要な役割を果たす続篇的作品である。
さっそく正月休みに帰省先のブックオフで『名もなき毒』を手に入れ、これもそのまま妻に託した。すると妻は、再読ながら前作『誰か Somebody』とこの『名もなき毒』2冊、期日の切られた内職そっちのけで熱心に読みふけっているので、気になってしょうがなかった。
妻が『名もなき毒』を読了するやいなや、まず『誰か Somebody』を読み、休む間なく『名もなき毒』を読みついだ。
二作とも、設定から話の運びに至るまで一分の隙なく、一気に心とらわれ、ぐいぐい引っぱられる。これは他の宮部作品と同様で、宮部さんの本を読んでいるときは時間を忘れ、電車の通過駅も忘れ、いつの間にか下車駅になっているという有様だ。この本を読むために長く電車に乗っていたいと思うほど。
そしてこの二作とも、いたく心惹かれる謎が輻輳して存在し、登場人物たちを動かしてゆく。感心するのは、それら謎が、いわゆる「謎解き」よろしく解決されることが物語の大団円とはならない。謎が解かれても、謎解きミステリを読んだときのようなカタルシスを味わうことはない。謎解きミステリにカタルシスは不可欠であるはずなのだが、謎の解決は大きな物語の流れのなかでは通過点に過ぎず、登場人物たちは、謎(事件)の発生とその解決という大きなふたつの契機を取り巻いてそれぞれの人生を過ごしてゆく。
殺された人、殺さざるをえなかった人、宮部さんのまなざしはそのどちらにも公平にそそがれ、それぞれが生きてきた人生の時間の重みが丁寧に描かれる。他者に対する想像力の使い方があざやかに示される。
二作の背後には、不条理な現代社会、そしてそこに生きる人間たちに対する宮部さんの強烈な危機意識が感じられる。
『誰か Somebody』では、「善良な一市民」が自転車に轢き逃げされ命を落とすという事件が発端となる。善良な、平凡な一市民として生活する。誰でもできそうなことが、実はいま難しくなっている。無傷で人間社会を生きぬくことがいかにたいへんか。この社会を現実に生きる者にとって、心の深いところに突き刺さる警告である。

それでも、自転車で道を走っていて人を殺してしまうことが容易に起こり得る社会では、善良で平凡であり続けることも、実はたいへんな偉業であるのかもしれない。(『誰か Somebody』12頁)
人が住まう限り、そこには毒が入り込む。なぜなら、我々人間が毒なのだから。(『名もなき毒』451頁)
主人公が、大財閥の相続権のない一人娘の婿(その他細かな設定の妙はたくさんあるが省略)であるという設定もうまい。すでに『誰か Somebody』を読んでいたときからじわじわ感じはじめていた不安が、『名もなき毒』を読むにつれ増幅させられていった。もうページをめくる指が止まらないのである。
このシリーズは少なくとももう一作出るそうなので(『誰か Somebody』所収杉江松恋氏の解説)、早く出ろ出ろと楽しみになってきた。