句会小説から広がる世界

できるかぎり更新していこうという気持ちから、リハビリのつもりでかつて書いた自分の文章を読み返し、感覚を取り戻そうと考えた。ちょうどいま9月なので、9月ばかりを溯って読んでいこうとしたところ、2007年9月12日条で取りあげた「挨拶としての俳句」(→2007/9/12条)で立ち止まった。俳人小沢實さんの『俳句のはじまる場所―実力俳人への道』角川選書)について書いたものである。
俳句とは畢竟挨拶であって、信頼できる読者に鑑賞してもらい、評価を下してもらってはじめて完結するという、相互コミュニケーションの機能をもっている。一人で詠んで満足していても、それは句作の本質ではない。
たぶんそれは当たっているのだろう。少なくともわたしは、そういう密なコミュニケーションのなかで俳句を詠むことに憧れている。まだ全部読み切っていないが、入船亭扇橋永六輔大西信行小沢昭一桂米朝加藤武柳家小三治矢野誠一各氏が同人である「東京やなぎ句会」が結成40周年を記念して出した『五・七・五 句宴四十年』岩波書店)を読むと、句会を通じて仲間と丁々発止のやりとりをする情景に羨望を禁じ得ない。そういう友だちがあればなあと、このときばかりは思う。
句会といえば、先だって文庫に入った三田完さんの『俳風三麗花』(文春文庫)もすこぶる面白い小説だった。「本邦初の“句会小説”」と銘打たれた変わり種小説。句会という空間、コミュニケーションのあり方に憧れる人間としては、黙って見過ごすことができない。
何しろ場所・人の設定がうまい。時は昭和7年。場所は日暮里渡辺町。数学の大学教授で俳人である暮愁先生のもとに集まる面々は、神保町の古本屋のおやじ、白山の写真館のあるじ、三井合名の会社員、下谷の筆職人など、多彩な職業の人びと。そこに、暮愁先生の亡くなった同僚の娘である「ちゑ」と、女子医専に通う医学生の壽子という花が加わる。あとから浅草の芸者松太郎も仲間に入り、毎月一度、暮愁先生の住まいに集って句会が開かれる。
宗匠から席題が出され、さてどういった句を詠もうかと思案するその頭の動きが微細に追いかけられる。まずはその言葉にまつわる自分の記憶を頭の抽斗のなかから拾いあつめ、言葉にしていく。率直な表現を避けて、十七文字という限られた空間のなかで、いかにその記憶を表現するか。俳句とは頭の運動そのものであると感心する。
句会を縦軸として、そこに句を詠む女性たちが巻き込まれる小さな事件を入れながら、ゆったりと季節が流れてゆく。戦争に向かいつつあるものの、まだ世間の空気はのんびりとしており、そこに初代吉右衛門・六代目菊五郎という当時絶頂にあった実在の名優が登場し、物語にアクセントを加える。風雅な小説だった。高橋睦郎さんによる文庫解説では、本書の構造がなるほどという切り口で示され、再読を誘うのである。
暮愁先生の住む日暮里渡辺町で思い出すのは久保田万太郎である。万太郎は大正12年関東大震災後移り住み、昭和11年に三田小山町に引っ越すまでこの日暮里渡辺町に暮らした。ちょうど『俳風三麗花』が描く時代、暮愁先生の近くに万太郎があったのである。
「大正十二年十一月、日暮里渡辺町に住む。親子三人、水入らずにて、はじめてもちたる世帯なり」という前書を持つ句が句集『草の丈』に収められている(わたしは中央公論社版『久保田万太郎全句集』に拠った)。

味 す ぐ る な ま り 豆 腐 や 秋 の 風
これもまた、新しく住むことになった町への挨拶なのだろう。
五・七・五―句宴四十年俳風三麗花 (文春文庫)