俳句(の本)をたのしむ

俳句のたのしみ

古本屋で、それまで存在すらまったく知らなかった本が何かの拍子に目に入り、「あ、面白そうだ」と買ってみる。読むとやはり面白く、「ああ、買ってよかった」「大当たり」と胸をはってわが“選書眼”を自慢したくなる。そんな出会いが年に数回もあれば、本好きとしては満足だろう。ちょっと人が悪いが、当の本が品切だったりするとなおさら「買っておいてよかった」と胸をなでおろし、黙っていられなくなる。
私の経験から言えば、本とのこんな出会いは、心に余裕があるときに限られるようだ。時間におわれ古本屋の棚をさっと流す、むろんそんな時でも見つかる本は見つかるのだが、予期せぬ出会いというものは、受け入れる側に余裕がないと、隙間に入ってこないもののようである。
先日ラピュタ阿佐ヶ谷で観る映画までたっぷりと時間があったので、余裕をもって阿佐ヶ谷のブックオフを訪れ、出会ったのが中村真一郎さんの『俳句のたのしみ』*1新潮文庫)である。これが大当たりの本だった。
本書は中村さんの俳句に関するエッセイを集めたものである。このうち冒頭の二篇「柴田宵曲のこと」「Poetae Minores Rococonis」は単独のもので、江戸中期以降のマイナーポエットの俳人たち13人の句を鑑賞する「俳句ロココ風」と、近代作家6人の俳句を鑑賞する「文士と俳句」という続きもの二つに加え、自句の自解がそのまま自伝的回想になった文章「樹上豚句抄」(初出私家版)から成る。
「Poetae Minores Rococonis」はタイトルから察せられるように、直後の「俳句ロココ風」の前書きにあたるエッセイと言っていいから、純粋に独立しているのは「柴田宵曲のこと」のみになる。とはいえこれはむしろ柴田宵曲の著作を通じ中村さんの俳句観を述べた内容ゆえ、本書全体の序文のようなかたちになり、見事にまとまりのある一冊となっている。
柴田宵曲のこと」では、学生時代に読んだ『蕉門の人々』と、最近読んだ『古句を観る』という二つの本を焦点に、俳句に対する接し方の変化を述べている。老いてから、「却って悠々として幻の江戸初期の空気のなかに、自分の老いの感覚を自然に溶け合せて、愉しい時間を過すことができるようになっ」た中村さんにとって、『古句を観る』に展開する宵曲の「博学と洒脱と犀利な文章の切れ味」が嬉しく、「近代の日本の慌ただしい文明も、流行の外にこうした美しい宝を埋没させているのだから、まんざら捨てたものではない」と手ばなしに褒めたたえる。
本書を通読すると、中村さんの俳句観が浮かび上がる。現代の俳人のように、全体的な自己表現のために俳句を詠むのではなく、むしろ時代遅れの江戸風な、「人生をひとつの遊びと観じた」(146頁)境地で詠まれた句を好む。自らも小説家の手すさびとして句作を楽しむから、そうした境地から生まれる俳句に共感を抱くのだろう。
中村さんの俳句を鑑賞する基本的な視線はポエジーである。「俳句をあくまで古今東西の普遍的なポエジーの場で鑑賞しようとしている」(45頁)のだ。これは江戸の小俳人たちの句を「ロココ」というキーワードで貫いた「俳句ロココ風」を読むとわかる。18世紀ヨーロッパの、巷の喧噪から離れ、こぢんまりとまとまった独立した小宇宙から生まれた文化潮流。江戸の俳句を外国文学と同じ視座から眺める姿勢に、新鮮な感動をおぼえた。
「俳句ロココ風」が、聞いたこともないような江戸のマイナー・ポエットを取り上げているのに対し、「文士と俳句」では、夏目漱石泉鏡花永井荷風芥川龍之介久保田万太郎室生犀星の句が鑑賞される。もとより好きな万太郎はともかく、このなかで中村さんの切り口で見せられて気になったのは、何と言っても鏡花の句だった。抒情性あふれる小説とはまったく別の世界、江戸風の洒脱と粋に満ち、遊び心に富む。こんな洒落た句を作っていたとは、これまで意識していなかった。
本書の俳句論で興味深い指摘は、俳句、ひいては短詩型文学の地域性ということ。中村さんは関西の俳人の句が直接的に胸に響かないという。

又、元来、純粋な関西の芸術には、関東で育った私は、生活感覚の細部において、味覚や触覚や嗅覚同様に、どことなく隔靴掻痒の感を免れないところがあるのも、関係しているかも知れない。(62頁)
自らの経験に対置して、関西の俳人の句には鋭い解釈が飛び出すのに、江戸派俳人に対すると妙に舌鋒が鈍るという、関西育ちの安東次男の俳句評釈を例示する。これを現代詩の解釈にも広げ、東京生まれにとって立原道造は美しく、伊東静雄はピンと来ない。逆に関西の人のアクセントで伊東静雄の詩の朗読を聞くと突然美しくなるとする。普遍である反面、生理的感覚という次元での局地性という逆説。私にはそういう繊細な感覚が欠如しているから、この比較の視点は面白かった。
最後に好きな鏡花の俳句。中村さんはこれを「鏡花的奇想そのもの」と評する。稲妻と裸足の女の対照。鮮烈なイメージである。
稲 妻 に 道 き く 女 は だ し か な
次に中村さんの句のうちで好きな句。中村伸郎から文学座関係の句会に誘われ、傘雨(万太郎)宗匠の前で詠んだ句とのこと。都会的センスに魅せられる。
年 の 瀬 や ま つ げ に と ま る 街 の 塵