緑風荘という文化発信源

文人の素顔

柳原一日いちひさんの『文士の素顔―緑風閣の一日いちじつ*1講談社)を読み終えた。
奥付の著者紹介によれば、著者柳原さんは「日本版ロマンス小説の旗手」なのだそうだ。寡聞にして知らなかったが、“ロマンス小説”とはハーレクイン系と理解してよいのだろうか。著者の父柳原緑風は、報知新聞記者を経て小説も書いた著述家だったという。かたわら東京で中華料亭「緑風荘」、熱海で割烹旅館「緑風閣」を経営する実業家でもあった。報知時代に机を並べた野村胡堂をはじめ、江戸川乱歩・本山荻舟・吉井勇長谷川伸らと親交もあり、本書は彼の本拠緑風荘・緑風閣での彼らとの交遊を娘の視点から回想した興味深いノンフィクションとなっている。
本書を買い求めたときの私の関心の第一は、柳原緑風と乱歩の交友にあった。著者も子供の頃、父の友人として乱歩に親しく接していたという。これはよく言われることではあるが、やはり柳原さんも同じ印象を持っているようだ。すなわち、江戸川乱歩は私が直接見知っている文士たちの中でも非常に高名で、かつ変わったものを書いた人だったが、もっとも普通の人であった」(11頁)というもの。紳士的で温厚で明るいおじさんだったという。著者の母が乱歩に『十字路』が良い*2と褒めた話や、著者が乱歩に『怪人二十面相』へのサインを求めたエピソードが微笑ましい。
上にあげた以外に緑風閣を訪れ緑風と交わった著名人をあげれば、太宰治檀一雄添田唖蝉坊出口王仁三郎花柳章太郎徳川夢声大辻司郎山内義雄高木彬光らがいる。高木彬光のデビュー作『刺青殺人事件』が、緑風の旧作をモデルにしたという話は初耳だった。
また変わり種では、村松友視さんの「鎌倉のおばさん」、村松梢風夫人がいる。第三者から見た「鎌倉のおばさん」像も面白く、著者は友視さんとお見合いをさせられたという若い頃の思い出話も披露されている。村松さんとは旧知の仲であったわけだ。
そんな緑風の交友関係をたどるのが主たる目的の本書であるが、個人的にもっとも興奮したのは、緑風が営んだ緑風荘・緑風閣という二つの建物のことである。
初代緑風荘は谷中真島町にあり、建物の前の所有者が金融恐慌で破産した渡辺銀行(あかぢ銀行)の社主渡辺治右衛門だと知って驚いた。「屋敷、庭、合わせて約一万坪、後庭には椎、杉、檜等が鬱蒼たる大森林を形成し、木曾の渓谷さながらの渓流などあるような、都会離れのした幽谷境に平屋が幾棟か建っている大邸宅」(23頁)を借り受け、中華料亭としたのだという。いまでも谷中の「あかぢ坂」上には、その名残をとどめる立派なお庭を持つ邸宅がある。近年分割されて興趣は多少薄れてしまったけれど。
「和の星岡、中華の緑風荘」と、魯山人の星ヶ岡茶寮並び称されたほど繁盛したらしいが、それゆえ逆に渡辺家から所有権を譲られた根津嘉一郎から地代の値上げを要求され、谷中を離れたのだという。移った先は芝高輪南町。まわりには毛利公爵邸、高松宮邸・竹田宮邸(現高輪プリンスホテル)など皇族華族の大邸宅がひしめく場所に建てられた二代目緑風荘は、岡田信一郎の設計にかかる中華風の建築だったというからさらに驚く。岡田といえば歌舞伎座の設計者ではないか。
本書によれば、この高輪緑風荘は『建築写真類聚』という写真集に載っているらしいのだが、身近の図書館に架蔵されておらず、残念ながら確認できない*3。同書によれば「瓦葺木骨鉄網コンクリート造り支那風建築」で、著者自身は「異色の名に恥じない不思議な景観の建物」だったとふりかえっているから、想像するだにワクワクする。
ところで初代の谷中緑風荘については、森まゆみさんの『明治東京畸人傳』*4新潮文庫)に触れないわけにはいかない。同書の最後の一篇「渡辺治右衛門で誰だ」では、渡辺一族の盛衰と真島町の渡辺邸界隈の歴史が聞き書をもとに丁寧にまとめられている。
それによれば、初代緑風荘の建物は十代目治右衛門自らが設計した建物で、緑風荘は町の者が食べに行くような所ではなく、黒塗りの車が止まっていたようなお店だったという。星ヶ岡と並び称されたのもうなずける話だ。この談話は十代目の息子の未亡人による。その長男が劇評家渡辺保さん。つまり渡辺保さんは渡辺治右衛門直系の孫なのだ。未亡人の父(渡辺さんの外祖父)は福島県白河で銀行を経営していた伊藤隆三郎という人物で、彼は画家中村彝のパトロンで、家には中村彝の絵がたくさんあったという、おまけの話まで知ることができた。
乱歩への興味から一転、緑風荘という中華料亭を中心とした、戦前における上流階級の交流を知るという予想外の収穫も得ることができ、また一つ世界が広がった。

*1:ISBN:4062123924

*2:『十字路』は渡辺剣次がプロットを考えた実質的な合作。

*3:柳原家は昭和60年頃まで所有していたとのこと。

*4:ISBN:4101390215