松本清張作品と映画

松本清張作品と映画は相性がいい。清張原作の映画なら誰が監督であってもたいがい出来はよくなるだろうし(というのは失礼か)、清張の小説を読んでいると、頭に映像がイメージされることが多い。
双葉文庫から、「松本清張映画化作品集」と銘打って、映画の原作となった短中篇ばかりを集めたユニークなアンソロジーが3冊刊行された。全14篇中、既読のもの、未読のもの、映画を観たもの、未見のものいろいろ混在しているが、この機会に3冊通読しようと志した。3冊の構成と既読・未読、既見・未見の別をまず示しておこう。太字は既読・既見作品である。原作発表年次、映画情報については各冊巻末の細谷正充さんによる解説による。
証言 (双葉文庫 ま 3-7 松本清張映画化作品集 1)鬼畜 (双葉文庫 ま 3-8 松本清張映画化作品集 2)松本清張映画化作品集〈3〉遭難 (双葉文庫)

  • 松本清張映画化作品集1 証言』
    • 「証言」(1958年) → 「黒い画集 あるサラリーマンの証言」(1960年東宝堀川弘通
    • 「内海の輪」(1968年) → 「内海の輪」(1971年松竹/斎藤耕一
    • 「地方紙を買う女」(1957年) → 「危険な女」(1959年日活/若杉光夫
    • 「種族同盟」(1967年) → 「黒の奔流」(1972年松竹/渡辺祐介
  • 松本清張映画化作品集2 鬼畜』
    • 「潜在光景」(1961年) → 「影の車」(1970年松竹/野村芳太郎
    • 「顔」(1956年) → 「顔」(1957年松竹/大曾根辰保
    • 「鬼畜」(1957年) → 「鬼畜」(1978年松竹/野村芳太郎
    • 「寒流」(1959年) → 「黒い画集 寒流」(1961年東宝鈴木英夫
    • 「共犯者」(1956年) → 「共犯者」(1958年大映/田中重雄)
  • 松本清張映画化作品集3 遭難』

このうえに「点と線」ゼロの焦点」「砂の器」など長篇作品を原作とした映画もあるわけなので、いかに清張作品が映画界から歓迎されていたかがわかる。日本映画の黄金時代と活躍期(デビュー間もない短篇の充実期)が重なったのも幸運だったろう。
映画を先に観ており、今回原作を初めて読んだというのが「黒い画集」シリーズの2篇。「あるサラリーマンの証言」の、小林桂樹演じる主人公が追いつめられていくサスペンス、「寒流」の、主演池部良が上司平田昭彦の前に屈してゆく身も蓋もない荒涼たるラスト、この二つの映画はいま思い返しても傑作であった。
それぞれの原作は、見どころたっぷりの映画にくらべ、短篇ということもあって意外にあっさりしている。切れ味鋭い結末で終わるのでなく、それぞれ余韻を持たせて終わるのである。こうした原作の余白に、原作にない部分が想像的に描かれ、見事に映像化された。この場合前者がサスペンスに、後者が寒気立つ雰囲気が余白に存分に展開されたと言うことになろう。
「寒流」のなかで、映画では池部良が夢中になり、その後平田昭彦に奪われて嫉妬にかられる料亭の女将を新珠三千代が演じている。原作では彼女(奈美)の容姿がこんなふうに描写されている。

奈美は、三十歳というが、二十五六歳くらいにしか見えず、すらりとした背で、和服がとてもよく似合った。小さな顔で黒瞳がぱっちりとしているから、はっきりした印象である。鼻すじが細く通って、唇の恰好がいい。といって、表情には勝気なところは見えず、顔も、体つきも細いから、かわいい感じであった。(180頁)
松本清張新珠三千代の大ファンだったというのは有名な話。映画を先に観ているからかもしれないけれど、上の文章は新珠さんを念頭に置いて書いたとしか思えないようなものだ。映画で実際新珠さんが奈美を演じることになり、原作者は独りほくそ笑んだのではあるまいか。
その他再読作品のうち「鬼畜」は、今回読んだ14篇中、唯一途中で読むのを放棄した作品だ。つまらないからではない。既読ゆえ展開を知っているのが災いした。初読のときも胸が締めつけられる思いにさせられたが、今回は、末の子どもを死なせる場面まで読んだところであまりに酷さにつらくなり、それ以上読み続けることができなかった。それほどにこの作品に流れる人間の情念は鬼気迫るものがある。
「張込み」は、張込みをしている刑事がとうとう目星をつけた犯人と出会うまで、読む者をぐいぐいと引っ張る力強いサスペンスが絶品。それでいながら底に流れる人間味もいまなお新鮮で、この作品が「社会派推理小説」のさきがけとなったのもうなずける。淡々と張込みするだけでない。いつ犯人が現われるのかという刑事の期待と焦りがリアルに伝わってくるのだ。
「地方紙を買う女」は何度読んでも傑作。「たづたづし」は最近初めて読んでから時間が経っていないでの再読だが(→6/28条)、あらためて大傑作だと確信する。清張作品のなかでもトップクラスに入れるべき名品。
その他印象に残ったのは、…と挙げようとして3冊のページをめくっていたら、あれもこれもと結局残る全ての作品を列挙しそうになったので、やめることにした。
視点を変えて、個人的に気になったポイントを挙げてみる。一つめ。「地方紙を買う女」「顔」「たづたづし」あたりに共通する。これらは、殺人を行った犯人の側から、犯罪が発覚する過程をたどったいわゆる「倒叙物」に該当する作品だが、犯人が、殺した相手の遺体が発見されたかどうかを確認するため、その地域(たいがいは東京から離れた田舎)の地方新聞を熱心に探す。
「地方紙を買う女」では、その新聞の連載小説を読みたいからという理由で、新聞社に直接購読を申し込む。結局その購読(と購読中止)動機が命取りになる。「顔」では、「有楽町あたりの盛り場に行けば、全国の地方新聞が「なつかしい郷土の新聞」として毎日売られている」ことを知っている犯人が、そこから毎日遺棄現場がある地元新聞を買い続ける。「たづたづし」では、ある官庁の課長の職にある犯人が、仕事の必要上全国の新聞を集めている職場のある部署で、目当ての新聞を探した。
第一冊中の細谷さんの解説によれば、「地方紙を買う女」での地方新聞を買うという着想は、「顔」に出てくるような発売現場を作者本人が知っており、それを使ったという作者の回想が紹介されている。発想の源はそんなところにあったのかもしれない。
そのうえで興味深いのはやはり現代社会との関連で、先日も書いたことと通底するが(→7/8条)、インターネットが発達した現在、地方ニュースも関係メディアのサイトを見ればほぼわかる状況になっており、犯人にこうした行動をとらせる必然性はなくなっていることだ。ましてや「地方紙を買う女」はそこから完全犯罪が綻びはじめるのだから、成り立たなくなる。
逆に言えば、中央の人間が、地方でしか報道されないようなニュースを知るためには地方新聞を見るしかないという、昭和30年代における東京にいる人間の行動様式を知るうえでの風俗資料としてこれらの作品を位置づけることができるだろうし、そのような時代的特徴を鋭く捉え犯罪と結びつけたあたりに清張の炯眼があると考えていいのだろう。これは、清張がこのような社会状況の変化を予測していたから、その部分に特に注目したと言うわけではなく、偶然の結果なのかもしれないが、何らかの嗅覚が働いていたと考えたほうが面白い。
もう一つ気になった点。ひと言で言えば、「そんなもんなのかなあ」と思わず口にしたくなるような描写。「内海の輪」は、不倫関係にあった元兄嫁を殺した大学の考古学助教授が主人公。彼が出張のとき女も婚家を出てきて落ち合い、二人は密やかな不倫旅行をする。宿泊する前に観光する場所を二人で相談している場面での地の文。
寝巻きに着かえる前に、知らない土地を見て回ることも夜の愉しみを促進するアペリティーフの役割をする。
そんなもんなのかなあ。たんなる旅行ではなく、「知らない土地を見て回る」ことが性的刺激を増進するものなのか。
同じ「内海の輪」で、その元兄嫁から結婚を迫られ、窮した主人公があれこれ考えをめぐらすくだり。
つまらないスキャンダルで学会から葬られないとも限らなかった。それでなくとも、有望な新進学徒として注目されているので、敵も多いことである。彼らは隙を狙っていた。学界はいまだに学徒に対しては純潔を要求していた。少なくとも、学界のボスになるまでは、そうである。
そんなもんなのかなあ。学徒の純潔? 「ボス」になったらいいのか?
次に「たづたづし」から。殺したと思いこんでいた女(これも不倫相手)が生きており、そのときのショックで以前の記憶を失っていたことを知った主人公は、失った記憶を取り戻させてあげると甘言を弄して女を誘い、記憶喪失のままふたたび愛人として生活することになる。いつ記憶が蘇るかわからない危険な女を主人公なぜそのままにしておいたのか。
それは、これまでとは違った新しい良子の魅力にわたしが完全に捉えられたからだった。自己の前半生を喪失している女は、ただひたすらにわたしに縋りついた。だが、それは記憶喪失以前の彼女とは完全に違っていた。彼女の愛情の求め方も、愛撫の反応も、生活態度も、すべて以前の良子ではなくなっていた。言葉つきも違う、動作も違う、完全によく似た別の女がわたしの前に現れていた。(原文では「よく似た」に傍点あり)
そんなもんなのかなあ。記憶を失うと「愛情の求め方」「愛撫の反応」が違うものなのかなあ、などと、想像はあらぬ方向に飛翔する。でもそんな主人公の態度を素直に受けとめさせてしまう語りの魔力が、清張作品にはある。
これら14篇は、多かれ少なかれ不倫が犯罪を生み出す原因になっている。殺すのは男の側なのだが、同工異曲と言うと口がすぎるかもしれないけれど、不倫関係のすえに相手の女性を殺してしまう男たちは、まったくもって一様に自分勝手、エゴイストすぎる。彼らのエゴイストぶりにいささか食傷気味になって、辛気くさくなる。
でも不倫(の果ての殺人)が辛気くささを催させるといった思考は、もはやひと昔前の発想なのかもしれぬ。もちろんいまでも不倫殺人はなくならないが、それ以上に、動機がまったくわからない殺人や、衝動的な殺人が毎日のように世間を騒がせている昨今、巨人二岡と山本モナの不倫などという話を聞くと、逆にからりと晴れた青空をイメージしてしまうのは、たんなる相対主義の魔術に陥っているだけだろうか。