7月読了本総浚い

1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶日比谷図書館資料課長の職にあった池田信さんによる写真集『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』毎日新聞社)が素晴らしい。しばらく前に買い求め、目を通して、1960年代の東京の町並みを克明に撮りためた圧倒的な写真の前に陶然となった。
オリンピックを前に変貌しつつある東京の町並みをカメラに収めた池田さんの足跡を、松山巌さんの解説が整理している。静かな風景が消えるという危機感を持って撮影されたとおぼしき写真群、しかしこの問題意識は当初からのものではなかったらしいと推測する。
なぜそういうことがわかるかと言えば、池田さんは撮った写真のフィルムを台帳に整理し、一カットずつ番号と日付をつけていたからである。それによって、池田さんがファインダーごしに切り取った東京の風景の変貌が跡づけられる。
水のある風景は、東京の静かさの一端を物語る。写真からは、よく言われる当時の「悪臭」はただよってこない。実際の現場を知らないわたしたちの世代から見れば、それゆえに繰り返し眺めても飽きない、素晴らしい東京の姿がこの一冊に封じ込められている。
昭和30年代をある意味代表するキャラクターの一人が「おそ松くん」。そして誰もが真似したという「シェー」のポーズ。わたしより若干年長の重松清さんは、先日読んだエッセイ集『うちのパパが言うことには』(角川文庫)のカバー表紙に、父親と一緒に「シェー」をしている写真を使っている。わたしは赤塚不二夫といえば「天才バカボン」の世代なので、おそ松くんはまったく知らないから、ここに珍しく断層がある。
「おそ松くん」と昭和こども社会 シェーの時代 (文春新書)泉麻人さんの『シェーの時代 「おそ松くん」と昭和こども社会』(文春新書)は、まさにおそ松くんの直撃を受けた泉さんが、「おそ松くん」作品から昭和30〜40年代にかけての社会風俗をピックアップした、いつもながら面白い本だ。
本書の特徴は、「おそ松くん」に登場するキャラクターを、映画やドラマに登場する俳優のような実在感ある存在としてとらえ、論評する姿勢だった。バカボンに登場する目玉つながりのおまわりさんは、すでに「おそ松くん」にも登場していた。これを「有名俳優の駆け出しの頃の作品に出会ったようで」と表現する。
また、様々な脇役キャラクターを、東宝映画の印象的な脇役俳優たち(田島義文・加藤春哉・佐田豊堺左千夫・沢村いき雄)を引き合いに出しながら、その活躍場面を紹介する第六章は読んでいてつい笑ってしまう。映画好きにはたまらないたとえ方である。
マイナス・ゼロ (集英社文庫)懐かしの昭和ということでは、広瀬正さんの傑作タイムトラベル長篇『マイナス・ゼロ』集英社文庫)を再読した。書店員さんたちの熱烈なラブコールが実り、集英社文庫からかつて出ていた六巻本の小説全集が新装復刊された。その第一弾。新装復刊といっても和田誠さんによるカバーイラストや元版解説などはすべてそのまま。
この長篇については、初読のおり感想を書いた(→2005/4/14条)。あれから3年を経ての再読。だいたいの粗筋を知っていても、なお読む者を牽引するこの力の強さは何なのだろう。広瀬さんが追憶する昭和初年戦前の東京の姿が彷彿とする。過去と未来を行きつ戻りつ、物語は見事につながり、いろいろあった過去も未来も、生きる喜びに満ちた時空間に様変わりする。何しろ元気が出る小説だった。
主人公がタイムスリップした昭和7年の銀座風景を、まず騒音を主題に描いている。

聞きなれない音である。じいさんがうがいをしているときのような、仰山な自動車の警笛。それと同じ目的で、市電の運転手が踏み鳴らす、カウベルに似た、けたたましい音。遠くの方から聞こえてくるザーッとという波の音のようなのが、すり減ったレコードの針音であることは、それにまじってかすかに「影を慕ひて」のメロディが聞こえてくることでわかった。さらに、それらの音の全部を圧して聞こえてくるのは、通行人の足音だった。土曜日の午後とあって、人通りが多い。その人たちの半数近くが和服で、ゲタをはいているのである。(186頁)
写真で見るむかしの東京は静かである。しかしその向う側に実際あったのは、悪臭であり騒音であったのだろう。
徘徊老人の夏 (ちくま文庫)文庫に入った種村季弘さんのエッセイ集『徘徊老人の夏』ちくま文庫)中の一篇「小京都」には、東京でなく京都の話だが、こんなことが書かれてある。
むかしの京都にはステレオ装置はなかった。町の人間のたてる、人声や下駄や荷車のわだちの音だけが聞こえた、のだろうと思う。それは生活の音だから、いくらやかましくても押しつけがましさがない。遠い時間をここへ引き寄せてくれる。(194頁)
『徘徊老人の夏』の元版が出たのは1997年とある。10年を過ぎての文庫化。元版はまだ仙台にいた頃出たのであったか。つい最近のような気もする。久しぶりに読み直すと、相変わらずのタネムラ節に酔う。とくに天国と地獄、芸術と廃墟、極大と極小、そんな両極端の二つを並べ、それらの弁証法に適合する文学やら映画やら、さらには卑近な体験やらといった素材を次々と手品のように、いや対面販売のように繰り出してくる手業にうっとり。それが「タネムラ節に酔う」という意味だ。「私のチャイナ・タウン」あたりが代表的な一文だろう。
大病から癒えたあとの「徘徊老人」のエッセイだと見くびるなかれ。いや、わたし自身、元版を読んだときにはそうした現在進行で種村さんの著作を読んでいたから、そのような陥穽にはまっていた。時をおき、著者が亡くなり冷静な頭で読むと、種村さんの本に流れる「思想」は、最後まで一貫したものだったことがわかる。
話は広瀬正さんに戻る。広瀬さんで思い出すのは、もっとも最近に読んだ長篇『ツィス』。これもいずれ復刊されるだろうが、このなかで、丹下健三が設計した都庁舎はガラス張りなので「ツィス」音を防ぎきれず、都庁は第一生命の建物に移ったとあった。
新宿の新都庁舎にせよ、代々木の競技場にせよ、東京ドームホテルにせよ、フジテレビもまた、丹下さんが設計した建物を見ると、いつもながら圧倒される。建築界のドンとして何かと批判されがちの人だったが、作品にこれだけ威圧感があって、しばらく眺めずにはいられなくなる建築家はそうざらにはいない。
磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ新都庁舎を建てるさいのコンペで、師匠丹下健三に挑戦状をたたきつけた磯崎新さん率いる事務所の面々のドキュメンタリー磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』文藝春秋)は、建築に興味はあっても、建築の世界の内幕、設計コンペの様子までは知らない素人にとって、このうえなくスリリングな読み物だった。