ステップアップ『点と線』

この半年の“逼塞期間”には、休みの日もあまり外出せず、家に閉じこもることが多かった。すっかりそんな怠惰な生活が身についてしまい、容易にこの癖はなおりそうもない。先の週末も、あんなに天気が良かったのに、言葉どおりの意味で一歩も外に出なかった。
逆にそのおかげで、金曜日に購入した3冊の新刊本を土日の二日間で読み終えてしまった。このうちの1冊は、昨日も触れた牧村健一郎獅子文六の二つの昭和』(朝日選書)である。
残り2冊は、やはり節目の年関連で、松本清張がらみの本だ。ひとつは阿刀田高さんの松本清張を推理する』朝日新書)、もうひとつは松本清張の代表作『点と線』(文春文庫)。
阿刀田さんには、松本清張論の快著『松本清張あらかると』(中央公論社光文社文庫)がある。実作者として、松本清張の諸作品がいかなる思考過程を経て書かれたのかを推理した面白い本だった(→2004/3/17条)。読んだのは古本屋で購入した元版で、光文社文庫に入ったときも買い求めたものの、冒頭数章を読んだまま中断している。
今回出た新著『松本清張を推理する』も基本的に同じ方法論で清張作品が取り上げられている。今回は「或る「小倉日記」伝」「張込み」『点と線』『砂の器』といった代表的作品が取り上げられたこと、また前記最初の二作品のように、短篇単体で取り上げられていることが特徴だろうか。
松本清張の出現、さらにいえば、「張込み」や『点と線』の発表が「社会派推理小説」の誕生を告げたといわれている。阿刀田さんに言わせれば、もとより清張が推理小説を書こうと思って書いたのではない。あとから見ればこれが推理小説の始まりとみなされるだけだという。
清張が従来の謎解き小説の主流だった、名探偵が謎を解くたぐいの“探偵小説”を忌避し、犯罪動機の追及から人間のドラマを見ようとする“推理小説”を生み出した、その最初の作品が『点と線』だった。
「何をいまさら」と言われそうだが、一昨日書いたように、新版を購入することが、既読の本の再読のいいきっかけになるのだ。もちろん新版は、すでに持っているうえに買うのだから、それなりの魅力をそなえていなければならない。今月文春文庫に入った『点と線』は、風間完画伯の挿絵入り(カラー)という付加価値につられた。
いま古い記録を調べると、わたしは2000年8月と2001年2月に読んでいる。2000年に新潮文庫版を買い直して読んだとあるのに、2001年には「十数年ぶりに再読」などと書いている。このあたりかなりいい加減な記憶だ。
それを考えれば、今回は四読目ということになろうか。今回読んで面白かったのは、警視庁でこの香椎の情死事件を追いかける三原警部補の生活感。大好きな喫茶店でコーヒーをすすって考えをまとめる。たまたま相席になった女性の前に、待ち合わせをしていた恋人が遅れて到着し、二人の会話を何気なく聞いてある考えがひらめく。
あるいは考えごとをするためにわざと都電に乗って終着点まで揺られる。

三原は都電に乗るのが好きだった。べつに行先を決めないで乗る。行先を決めないというのは妙だが、何か考えに行きづまったときには、ぼんやり電車にすわって思案する。緩慢な速度と適度の動揺とが思案を陶酔に引き入れる。頻繁にとまり、そのたびにがたごととぶざまに揺れて動きだす都電の座席に身をかがめる。この環境の中に自分を閉じこめ、思考のただよいにひたるのである。(文春文庫版183頁)
これと通じ合うのは、地元福岡でこの事件に不審を抱いた鳥飼刑事が、香椎駅(当時国鉄)と西鉄香椎駅の間を歩いて何度も往復しながら、その時間と不審点をぶつけ合って推理をする。鳥飼刑事は歩きながら「思考のただよいにひたる」。
『点と線』の面白さはここにきわまる。「四分間の偶然」や、犯人の移動トリックが面白いと言っているようではまだまだ『点と線』初心者だ(=これまでのわたし)。
原作四読の記憶が消えぬうち、ちょうどハードディスクに録画しておいた東映の映画「点と線」(小林恒夫監督)を観てみた。こちらは再見。鳥飼刑事は加藤嘉というこれ以上ない絶妙な配役であるにもかかわらず、上記したような三原警部補や鳥飼刑事の推理過程がまったく省かれ、あたかも「名探偵」三原警部補が、犯人の仕組んだトリックを見破っていくという“探偵小説”の映画化になってしまっている。
松本清張の意図や、書かれた時代の空気を伝えるためには、都電のシーン、歩くシーンなどを省くべきでなかった。加藤嘉の鳥飼刑事はまさに適役だったので惜しい。
松本清張を推理する (朝日新書)点と線 (文春文庫)