シングルファーザー今昔

2月から3月にかけ神保町シアターで組まれていた特集「東宝芸映画の世界」のうち、堀川弘通監督の「娘と私」を観に行った。2004年1月にラピュタ阿佐ヶ谷で観て以来、二度目である(→2004/1/25条)。
前回も観ながら目が潤んできたが、そういう映画であるとわかって観に行ったせいもあって、今回はもう最初から駄目だった。観ながら涙が滂沱として出てくる。べつにわたしに娘はいないのだけれど、娘を男手ひとつで育てあげ、彼女の成長を心配しながら見守る父親山村聰に感情移入せずにはいられない。
獅子文六原作の映画では市川崑監督の「青春怪談」とこの「娘と私」が両横綱。この週末読み終えた朝日新聞記者牧村健一郎さんの評伝獅子文六の二つの昭和』(朝日選書)にも、獅子文六作品と映画の相性のよさに言及がある。
たしか小林信彦さんも触れていたと思うのだが、「ゴールデンウィーク」というのは映画業界から言い始め、そのきっかけになったのが、1951年に松竹と大映で「競作」された「自由学校」なのだという。「同じ原作を二社が同時に作り、同時公開するなんて、今では考えられない」と牧村さんが驚くが同感。
ところでかつてわたしは、いまあげた「娘と私」「青春怪談」の二作は、いずれもシングルファーザーという共通点があることを指摘している(→2004/5/24条)。ついでにあげれば『悦っちゃん』もそうだ。この頃のわたしは実に鋭かったものだなあ。これは現実の獅子文六がそうした境遇に一時あったという体験を下敷きにしているからだろうが、獅子文六作品では、妻を亡くした夫と、母を亡くした娘という二人の人間の問題、そしてその二人の関係の問題に焦点があてられていたように思う。
これに対して、現代においてこのようなシチュエーションの物語を書かせて右に出る者がいないのが、重松清さんだろう。最新の長篇小説『ステップ』中央公論新社)がまさに赤ん坊の頃母(妻)を亡くした男一人娘一人の物語だった。前作の『とんび』も同じ。重松さんは母の欠落の物語を繰り返し書きつづける。
この小説も泣けるだろうなあと読み始めたところ、ほろりときた場面がいくつかあったほかは、涙を流すことはなかった。重松作品を読んで涙した数年前にくらべ何が変わったのだろうか。たんに感受性が鈍くなっただけかもしれない。
それはともかく、重松さんの場合、「家族のかたち」というものが重視されている。父一人娘一人という家族のかたちが外側にいる人びとからどう見えるのか。あるいはどう見られているのかをどのように感じているのか。父子家庭に生じるドラマが、約50年前(映画「娘と私」は1962年)といまでは異なってきているのだろう。
獅子文六および重松清作品における「母」の欠落。国文学の卒論のいいテーマになりそうだと思いませんか?
獅子文六の二つの昭和 (朝日選書)ステップ