松本清張を分析する

清張 闘う作家

近年の“(松本)清張ブーム”とは、いつ頃発したものなのだろう。中居正広主演でドラマ化された『砂の器』がきっかけだとすれば、2003年の年末から2004年初頭にかけてのことだ(→2004/1/17条)。
もとより松本清張の作品はブームの有無にかかわらず「忘れ去られる」ということはないとも言える。いまでもコンスタントに売れ、つねに新しい世代のファンを獲得しているに違いない。
いわゆる近年のブームに着目してちょっと自慢させてもらえば、ブーム以前からわたしは松本清張作品を好んで読んでいる。読書記録を遡ってもっとも古いものは、わたしの職場に勤めている人間の零落を扱った「笛壺」を取り上げた2000年7月25・26日条だ(→旧読前読後2000/7/25条)。
その後も間歇的に清張作品を読みつづけている。そういうときの心境はこんなものであった。

無性に、というほど大げさではないけれど、ときどき松本清張を読みたくなることがある。松本清張作品のカラーに自分の気持ちがしっくりと馴染む時期がある。欲望、妬み、コンプレックスといった人間の心のなかに沈殿しているどす黒い暗部をこれでもかと描き出す清張作品の暗さを、まるでのどが乾いたときにゴクゴクと水を飲み干したいと欲するように、欲するときがある。
上の文章は、清張作品を昭和30年代の日本社会を読み解くテキストとして取り上げた藤井淑禎さんの『清張ミステリーと昭和三十年代』*1(文春新書)を読んだときの感想として書かれたものである(旧読前読後2002/11/29条)。自宅にもっとも近かった古本屋で買い求めたことを憶えている。もうその古本屋はなく、そこはいま八百屋になっている。
この藤井さんの本によって、わたしの清張作品を見る目が変わったと言ってよい。筋の面白さや登場人物のどす黒い情念だけでなく、作品から昭和30年代の社会を読むという視点を与えられたのである。川本三郎さんや関川夏央さんら、好きな文筆家が清張作品の読み手であることも、もちろん大きい。
藤井さんは立教大学文学部の先生で、現在同大の「江戸川乱歩記念大衆文化研究センター長」でもあるらしい。立教に隣接する乱歩邸が同大に売却されて設けられた研究拠点なのだろう。近年はそんな乱歩ルートからお名前をよく目にしていた。
その藤井さんが今度出したのは、松本清張に関する本格論文集だ。題して『清張 闘う作家―「文学」を超えて―』*2ミネルヴァ書房)。小倉の松本清張記念館が出している専門研究誌『松本清張研究』に発表された論文をまとめた本格的な(というのは国文学的なという意味)ものであるが、清張ファン・探偵小説ファンも楽しめるような、読み応えある本だった。
本書がまとめられたのは、藤井さんが1999年に『清張ミステリーと昭和三十年代』を出したとき、「いよいよこれからは読み物でなく研究の時代だ、というような期待や意気込み」を持っていたにもかかわらず、その後も状況がさほど変わらないのを不満に思い、研究をまとめることで研究者の世界に刺激を与えようとしたからだという。
本書はたんに松本清張の作品論にとどまらず、松本清張が対峙していた「純文学」との闘い、また、ミステリーのなかでも「本格物」との闘いという日本の文学潮流のなかに清張作品が位置づけられており、スケールが大きい。
これらを読んでいると、引用文献に専門研究者の書いた乱歩論やミステリー論が多く、ここ十年ほどの間に乱歩やミステリーは立派な近代文学の研究対象となったのだなあと驚いていたのだったが、藤井さんにとってみれば、清張研究はそれでも物足りないらしい。
『清張ミステリーと昭和三十年代』からの流れで言えば、あまり目立たない短篇「氷雨」を取り上げて赤線廃止前後の時期の水商売社会の動向を論じた7章「「氷雨」とその時代」が興味深い。
マチュアの出現におびやかされる玄人の世界、ないしは新興勢力に揺さぶりをかけられる旧秩序、というような観点を導入すると、「氷雨」の世界はさらに拡がりをもって見えてくる。(135頁)
このように藤井さんは、一短篇を媒介に日本社会の質的転換を見すえようとする巨視的な視点を持っている。上の状況は、何だか昨日観た川島雄三監督の「縞の背広の親分衆」にも通じそうだから面白い。清張「氷雨」は1958年、川島作品は1961年だ。日本社会全体が旧秩序の動揺という時期にさしかかっていたのだろう。
また9章「メディアと清張ミステリー」では、「出張は浮気の記号であった」とし、出張旅行中に急逝した夫の謎がテーマとなった「愛と空白の共謀」(1958年)という作品が取り上げられている。出張が浮気の記号というのは、たとえば源氏鶏太作品が原作となった映画「浮気旅行」や、同じく「重役の椅子」を思い出す。家庭から遠く離れ、連絡も取りにくく行動が見えなくなるのをいいことに、愛人を同伴したり、出張先で愛人と落ち合ったり。源氏鶏太作品からも、記号としての浮気が見えてくるだろう。
こんなふうに清張作品をテキストに現代社会を読み解く藤井さんの方法は相変わらず刺激的であり、面白い。本書では清張作品だけにとどまらず、同じく社会派ミステリーの巨匠である水上勉作品(とりわけ『飢餓海峡』)が分析の素材となっている。社会派ミステリーはまだまだ多様な読みが可能なようで、門外漢としても、藤井さんの研究に触発されたような研究を読んでみたい気がする。