現在としての昭和33年、過去としての昭和33年

昭和33年

ちくま新書新刊のなかに、布施克彦『昭和33年』*1という本を見つけたので食指が動き、買ってさっそく一読した。簡単に結論を言えば、括弧つきの「期待はずれ」ということになる。期待はずれで面白くなかったという意味ではない。わたしの期待の寄せ方がおかしなものだったのだ。
ではわたしは本書に何を期待していたのか。昭和33年(1958)という年はいったいどんな一年だったのか、日本の現代史のなかから、昭和33年という一年だけを輪切りに切り取って、その一年間をドキュメント風に描いた本、という内容を予想し期待していたのである。ではなぜ昭和33年なのか。
そもそも著者布施さんが昭和33年を取り上げたのは、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がこの一年の物語であったためだという。先日テレビ放映されたが、観逃してしまい未見である。この映画が昭和33年の物語だということは、たぶんいろいろなところから情報として自分のなかにも入ってきたに違いないが、本書を読むまでまったく意識していなかった。「へえ、そうなのか」とあらためて認識した次第。
わたしは別の事情から昭和33年が気になっていたのだった。年末近くになった頃合いに、この一年間に観た映画をふりかえることになろうが、今年は1957年、58年あたりに作られた作品をけっこう観ているという記憶がある。この時期の作品を観る機会が多いので、意識的にこの一年ないし二年間に作られた作品だけ観てみようかと考えたこともあったほど。
この集中には理由がないわけではない。今年は石原裕次郎デビュー50周年の年であり、チャンネルNECO裕次郎主演映画を多く放映した。彼のデビューは56年(「太陽の季節」)だけれど、57年から58年にかけ、爆発的人気を得ることになる傑作が次々と放たれたのである。
57年で言えば、「勝利者」「鷲と鷹」「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」がある。変わり種では「幕末太陽傳」もこの年だ。また58年には「夜の牙」「錆びたナイフ」「陽のあたる坂道」「素晴らしき男性」「風速40米」「赤い波止場」「紅の翼」など、話題作に事欠かず、わたし個人も楽しく観た記憶のある映画が多い。
裕次郎作品以外に目を向ければ、フランキー堺の「ぶっつけ本番」、長門裕之の「麻薬3号」、池部良の「重役の椅子」、月丘夢路大坂志郎の「夫婦百景」、原節子森雅之の「女であること」、岡田茉莉子の「花嫁のおのろけ」などを観ている。全6部を観通した「人間の條件」の原作がベストセラーになったのもこの58年だった。
というわけで、この一年よく1958年の映画を観たなあという感慨を持っていたところに出た本だから、飛びつかないわけにはいかない。
著者の布施さんは元総合商社マンで、長い海外勤務の経験を生かし、現在はNPO国際社会貢献センターのコーディネーターとして活動、また大学で「日本の国際化への社会貢献」をテーマに講義されているという。
本書のテーマは、多くの日本人に共有される思考癖である「昔はよかった症候群」「未来恐怖症」を批判することにある。「ALWAYS 三丁目の夕日」など昭和30年代を対象に、「昔はのんびりしていた」「人間に暖かみがあった」などと懐旧の思いで過去を賛美する日本人たちを覚醒させ、いっぽうで、オタク化し忍耐力のない現代の若者たちを歎き未来の日本のゆくすえを心配する大人たちにも警鐘を鳴らす。
「昔」の一例として、たまたま「ALWAYS 三丁目の夕日」の昭和33年が選ばれたにすぎなかったのだった。昭和33年時点でも、当時の大人たちは若者たちに厳しい目を向け将来を憂えていたのだから心配の必要はないと、いつの時代の日本人も抱く「未来恐怖症」を払拭させようとする。
いっぽうで「昔はよかった」とよく言うけれど、昭和33年という一年を見ると、やはり経済面では先行き不透明で希望を持てた時代ではなかったし、いまとは比較できないほどの下流社会が存在した。子供の数は多かったので教育の質も相対的に稀薄であり、受験戦争も激しく、少年暴力も今より多く、自殺者率も高かった。
インターネット依存への懸念は、当時のテレビ普及への懸念に通じる。まだ新幹線ができておらず、旅行するにも時間がかかって快適とは言えない。自動車の普及スピードの早さに道路インフラの整備が追いつかず、交通事故の死亡者数もいまより多かった。犯罪だって、人口10万あたりの件数は現在と桁違いに多い。
布施さんは、こんなふうに昭和33年のデータをずらりと揃え、「みんな昔はいいと言うけれど、ほら、このときだって今と変わらず(あるいは今以上に)大変な時代だったんだよ」と実証してみせるのである。
これを読んでわたしは、うーん、と首をひねる。たしかにデータに基づいた実証は理に適っているかもしれない。昭和33年は「昔はよかった」と懐かしがられるほど安穏な年ではなかったのに違いない。
でも、「昔はよかった」と懐古的な思いにひたる人にとってみれば、そうしたデータを見せられても、「昔はよかった」と思う気持ちを捨てることはないのではないか。たとえば、ひたすら過去の思い出を美しいものとみなす北上次郎さんにとって、現実を見せられたからといってその思考癖が変わるわけではないだろう。過去は無条件に美しいのだ。
科学的態度と懐旧の感情は永遠に交わらない。布施さんが問う、日本人はなぜ「昔はよかった症候群」に陥るのかという問題を考えることは有意義だし、ユニークな発想だと思う。でもたとえそれが負の思考であって脱却すべきものと批判されても、「昔はよかった症候群」はなくならないのではあるまいか。