旧作日本映画贔屓継続宣言

「愛人」(1953年、東宝
監督市川崑/原作森本薫/脚本和田夏十井手俊郎/菅井一郎/越路吹雪三國連太郎/尾棹一浩/有馬稲子岡田茉莉子伊藤雄之助沢村貞子/石田美津子/塩澤登代路

ふだんならとっくに眠りについている時間帯に帰宅した。次の日も朝が早いから、早めに寝床に入ったほうが身体のためにもなるのだろうけれど、こういう日にかぎって映画を観たいという気力が沸いてくる。すっきりしない一日だったという思いが、映画によって心を満たそうという行動になってあらわれるのだろうか。
先日は和田誠さん一色のウィークエンドを過ごした。週が明けると古本屋やブックオフで和田さんの『お楽しみはこれからだ』を買い込んできたり、和田さん装幀の小林信彦本を買ったりするなど、和田誠への傾斜は止まらない模様である。
『お楽しみはこれからだ』はこれまで古本屋などで見つけても、外国映画の話が多いのでスルーしてきたのだったが、たとえ外国映画でも和田さんの映画の話であれば何でも面白いはずなので、とうとう買ってしまった。6冊出ているうち3冊手に入れた。
巷では和田さんの快著2冊『装丁物語』『似顔絵物語』の白水uブックス版が出たようだ。知人から「もう出たよ」と教えていただいたが、まだ実物を見ていない。来週買うことになるだろう(元版の感想はこちら→旧読前読後2001/6/3条2005/8/10条)。
さて、憂さ晴らしのため選んだ映画は、このところ毎夜日本映画専門チャンネルで放映され、録画していながら、そして観たいと思いながら、疲れて観ることができないでいた50年代の市川崑作品だった。これまた和田さんと無縁ではない。
先日読んだ井上ひさしさんの対談集のなかで、市川崑作品について語り合った和田さんは、自分が最初に観た市川作品は「愛人」であったと話している。山田宏一さんとの対談集『たかが映画じゃないか』*1(文春文庫)では、「愛人」を観たのは高校生のときで、その頃はアメリカ映画が好きで日本映画を敬遠していたのだが、これを観て「日本映画もこんなによかったのかって思った」と語っている。
「あれはほんとに洒落てたなあ」としみじみ口にしたところに、山田さんからどんな点が洒落ていたのかと問われ、和田さんはこう答える。

せりふが気が利いていたね。それにテンポがよかった。もともと、あれは森本薫の戯曲なんだけど、芝居臭さをまったく感じさせないで、室内劇じゃなくしてたからね。軽井沢かなんかに舞台をもってっちゃって。役者もよかったしね。越路吹雪三国連太郎、菅井一郎、それから有馬稲子岡田茉莉子なんかだね。捨てぜりふみたいなのが、ものすごく気が利いているんだね。伊藤雄之助がちょっと出たね。(158頁)
観てみると、和田さんのおっしゃるとおりと感じた点と、正反対に感じた点があって、われながら、これだから映画は面白いと感激したのである。
映画監督の菅井一郎は子供の尾棹一浩・有馬稲子兄妹を連れて軽井沢に避暑に来ている。尾棹はそこで出会った岡田茉莉子に一目惚れする。岡田は舞踊の師匠の母親越路吹雪と二人で軽井沢に来ていたのである。次のシーンは結婚式。パーティに呼ばれた沢村貞子有馬稲子に迎えられ、また岡田茉莉子に挨拶する。では新郎新婦は誰なのかと訝っていると、カメラが近づいて映したのは菅井一郎と越路吹雪なのだ。
そこからは、菅井・越路夫婦と、尾棹・有馬・岡田の連れ子同士の兄妹、そこに菅井の弟子の助監督三國連太郎が絡んで恋愛劇が繰り広げられるのである。
ともかくテンポがいい。別の用事をしながら観ていた(聴いていた)妻から「疲れてるのによくこんなテンポが早い映画を観るねえ」と呆れられたほど。愉快軽快に観終えたあまり、身体は疲れているのに神経が昂ぶってなかなか寝付けなかったほどだった。
和田さんが「芝居臭さをまったく感じさせない」「室内劇じゃなくしてた」とした点、わたしは逆に感じた。観ていて川島雄三監督の「しとやかな獣」を連想したくらい、別荘という単一の空間と一定の時間内に繰り広げられる三単一にかぎりなく近い台詞劇に強い芝居臭さを感じると同時に、それを映画的に誇張するシーンには興奮を抑えきれなかった。
鹿島茂さんは『甦る昭和脇役名画館』*2講談社)のなかで、「しとやかな獣」についてこう論じている。
まるでラシーヌ劇(一つの場所、二四時間、一つのストーリー)の法則に基づく脚本の堅固な構成。登場人物全員が悪党で、しかもその欲望が数学の方程式のように巧みに組み合わされ、一つのベクトルとなって結末へと一気に向かっていく演出のダイナミズム。(123頁)
むろん「愛人」の登場人物は悪党とは無関係だが、伊藤雄之助山岡久乃夫婦が菅井一郎・越路吹雪夫婦に重なり、川畑愛光と尾棹一浩の長男の存在が何となく似通っている。「しとやかな獣」での若尾文子は、さしずめ岡田茉莉子だろうか。いや、三國連太郎がそれだろうか。
欲望(=恋情)が数学の方程式のように巧みに組み合わされ、三國を焦点にして一つのベクトルとなって結末へと一気に向かっていく。三國という存在によってベクトルが集中され、一気にそれが爆発する。
個別の場面では、三國連太郎越路吹雪に愛の告白をするシーンが演劇的だ。階段を登る途中の越路に向かい下から呼びかけ、越路は振り向いて三國を見つめるときに流れる張りつめた空気。見上げる三國の表情と、振り向いた越路の、和服を着た身体をひねり下を向いたときの姿勢。なんと芝居的なのか。越路と三國というアクの強い俳優同士のぶつかり合いに喝采を贈る。
越路吹雪の細かな表情の変化がとてもユニークだ。この作品では重い役ではないが、一人飄々とした雰囲気で場の空気をさらう伊藤雄之助と、越路吹雪の馬面コンビ。同じ市川監督の「プーサン」も早く観よう。
シェークスピア役者みたいな(では「シェークスピア役者」とはどんなものだと問われても説明できない)、こういう俳優は日本を探しても他にいないだろうと思われる菅井一郎の枯れた味わいにアクの強い二人、そして可愛い有馬稲子岡田茉莉子! 顔アップで電話に向かい話しつづける長回しという沢村貞子の圧巻の一人芝居も用意されていて、ああやっぱり日本映画はまだまだ面白い作品がたくさんあると興奮をおぼえた。
この一年で観た映画をふりかえると、昭和30年代を中心とする日本映画ばかりに偏向した、すこぶる異常な映画鑑賞趣味だなあとあらためて感じざるをえなかった。けれども「愛人」のような映画を観ると、いや、このままでいい、日本映画を観るだけで楽しめるし、それで十分と偏向に勇気づけられるのである。