森繁変幻自在

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「神阪四郎の犯罪」(1956年、日活)
監督久松静児/原作石川達三/脚本高岩肇森繁久彌左幸子新珠三千代滝沢修清水将夫轟夕起子/高田敏江/金子信雄宍戸錠下條正巳

最寄駅前にあるTSUTAYAを徘徊していたら、偶然この映画のDVDが並んでいるのを見つけた。あまりメジャーとは言えないような作品がソフト化され、レンタルショップに並んでいることに感激する。森繁さんが巨大な存在になっているゆえだろうか。どんな理由にせよありがたいことである。神阪四郎の犯罪 [DVD]
この映画はあとで述べるような理由で、かねがね観たいと思っていた作品だった。ある出版社の編集長(森繁久彌)が、作家志望の文学少女左幸子)と心中未遂事件を起こし、自分だけ生き残る。自殺幇助罪に加え勤務先の資金を横領した罪に問われ、法廷で事件の真相が少しずつ明らかになるという法廷劇だ。
事件と関係する人びとが証人として証言し、その内容が回想シーンとして挟まれながらストーリーは進行する。出版社の社長(清水将夫)、女性編集者(高田敏江)、出版社に寄生する評論家(滝沢修)、愛人関係にあるシャンソン歌手(轟夕起子)、妻(新珠三千代)、そして自殺した少女の日記。それぞれの証言が食い違いながら、神阪四郎という稀代の色事師・業師の像が明るみになる。
心中未遂事件に至るまでの推移や神阪の人物像について、証言者の証言が食い違うという点では、芥川龍之介の「藪の中」的であり、「羅生門」的と言える。これらの証言を受け、最後に神阪=森繁が長演説をふるう。
証人たちの言っていることは、おのおのすべて自分に都合のいいところだけを切り取って事実をねじ曲げたものであり、真相とはほど遠い。自分の述べている「真相」なるものもどれだけ事実を伝えているかわからない。そもそも現代社会において客観的事実は存在せず、「真相らしい」ものが真相とされるのである、と。
それぞれの回想シーンでは、証言者各々がまったく違う神阪像を証言するわけなので、それに応じて森繁さんも神阪を演じ分けることになる。この変幻自在な演じ分けが素晴らしい。“森繁百態”といった風情である。
とりわけ轟夕起子と二人で熱海の温泉旅館に泊まりにでかけたさい、部屋において交わすシーンでの洒脱な掛け合いや、左幸子の日記に描かれた女言葉を使ういかにも詐欺師的な神阪像の演技は絶妙。
絡みで言えば、前述の轟夕起子とのシーンのほか、左幸子の日記と森繁の証言で同じ「客観的事実」に対する「真相」がふた通り再現されているわけだが、左・森繁それぞれの人格がかけ離れているあたりが見所。森繁証言に描かれる左の誇大妄想症的女性像が迫真。それに滝沢修と森繁の対決シーンも息を呑む。この映画での滝沢修は、出版社に寄生し、文学少女を住み込みで入れて手込めにするという悪辣な評論家を演じており、そのいやらしさが過剰にならずに素晴らしい。コラムは誘う―エンタテインメント時評1995~98 (新潮文庫)
さて、この映画を観たいと思っていたのは、小林信彦さんが好意的な評価を与えていたゆえだった。『コラムは誘う』(新潮文庫)のなかで「幻の森繁映画「神阪四郎の犯罪」」と題して一回分をこの映画評に割いているのである(もっとも実際わたしがこの映画を気にするようになった小林さんの文章はほかのものであるが、いま探しても見あたらない)。
このなかで小林さんは、この映画だけ見落としていたがNHK-BSでようやく観ることが叶ったとして、その感想を書いている。「なんといってもプロットが面白い」とするいっぽう、難点を二点、指摘する。
ひとつは前半(証人の証言)・後半(森繁の証言)において、人々の演技が微妙に変わっていなければならないのに、うまくいっていない点。いまひとつは、森繁がシーンごとに演技のスタイルを変えるので、観る方が混乱してしまう点。
わたしは小林さんが指摘した二点とも、むしろこの映画の長所として受けとめてしまったから、同感はできないのだが、「誠実でチャランポランな男という、当時としては、森繁以外に演る人がいない役」という表現には深く頷いてしまった。観ながら同じことを思っていたからだ。
前年に「渡り鳥いつ帰る」や「夫婦善哉」、この年には「猫と庄造と二人のおんな」などに出演しているのだから、絶頂期にあったと言っていいのだろう。面白い映画を観た。小林さん同様、石川達三の原作を読みたくなったのである。