川本効果を体験する

東京の空の下、今日も町歩き

川本三郎さんの泊まり歩き紀行の傑作『東京の空の下、今日も町歩き』ちくま文庫に入った*1。『東京人』連載、講談社刊の元版(→2003/11/16条)と愛読してきたファンとしては、手軽に読めるようになったことが嬉しい。
荻窪の天沼陸橋の下をまっすぐに走る中央線(オレンジの電車付き)と、青空の下住宅が櫛比する町並を俯瞰するように描いた元版のカバーイラストとはまた異なるイラストになっているのもいい。同じ森英二郎さんにより、文庫版では川の土手から青空を見上げた構図のイラストになっている。元版の例もあるから、本で取り上げられた場所に違いない。本文の記述を探したところ、鮫洲の勝島運河ではないかと見当をつけた。文庫版で224頁から226頁にかけての風景だ*2東京の空の下、今日も町歩き
このなかにわたしの住む町も取り上げられている。川本さんが歩くと、いつも自分が毎日暮らし、見慣れている町ではないかのように思えてくる。まるで少し離れたところにある雰囲気のいい駅前商店街を擁する町に見え、「ちょっと町歩きに行ってみたい」という気分にさせられるのだから不思議だ。あらためてわが町を見直すことになる。
地方出身者ゆえなのか、たとえどこに住んでも、東京に住むかぎり「わが町」という感覚を持つまでには至らず、客観的に見直す機会がたえずおとずれ、そのたび新鮮な気持ちになるという経験を繰り返すのではないか。テレビの情報番組で取り上げられることもあるだろうし、このような川本さんのすぐれた町歩き紀行に接することができるからでもある。対象に深入りしない、つねに旅行者的孤独散策者的な視点で町を眺める地点に踏みとどまる。これを“川本効果”とでも呼ぼうか。
いま「東京に住む」と書いたが、限定しなければなるまい。車を使うような郊外型の町ではなく、電車主体の、駅前に個人営業の店が連なる商店街が形づくられている町の場合である。
「東京の町は、商店街から商店街へと町がつながっている。だから歩いて飽きない」(文庫版31頁)。「鉄道がないということは駅がない。駅がないということは商店街がない。これが寂しい」(同86頁)。
かくして川本さんは、東京を「全体が「商店街都市」「市場バザール都市」」(127頁)と名づける。そしてこのような特色はそこで暮らす庶民により作られ支えられていることに注意を喚起する。わたしの住む町で一杯呑んだあとに漏らした感想には、珍しく強い語感の文章が綴られている。

工場の多い町だから、安くていい飲み屋が多い。一日、よく働いた工員たちが自分の金で気持ちよく酒を飲む。そうやって、いい居酒屋が作られてゆく。われわれはいまその恩恵を受けていることを忘れてはいけない。(184頁)
元版刊行後たびたび繙き、そのつど町歩き紀行を味読して「歩いたあとのビール」への憧れをつのらせた愛読書だが、文庫版を購い目次をあらためて眺めていたら、ひっかかることがあり、その部分を急いで開いて愕然とした。
先日フィルムセンターで日活映画「人間狩り」を観たとき、登場する青戸や赤羽、町屋の町並みと、ストーリー展開を大絶賛した(→9/5条)。とりわけ大坂志郎が住む町屋駅前周辺のたたずまいにはひどく感動し、「川本三郎さんにぜひこの映画を論じてほしいと思ったほど」と書いたのである。川本さんの『銀幕の東京』(中公新書)には触れられていないとだめ押しまでした。
ところが『東京の空の下、今日も町歩き』中の町屋歩きの一文「失われた東京の幻影が浮かび上がる「町屋」」を読むと、ちゃんとこの映画が取り上げられ、しかも大坂志郎の住むあたりはオープンセットだったということまで触れられているではないか。愛読書と誇らしげに書き立てたわりにはあまりにお粗末な読み方。細部をすっかり忘れるという体たらくに、恥じ入るほかない。
町屋駅高架下の前に廃屋のような洋館がある。門の脇に大きなヒマラヤ杉が立っている。その雰囲気だけで不思議なのに、周辺にはもっと面白い風景が広がっている。
この家の塀に沿って、これもまた不思議なことに古本屋がある。といっても路上に無造作に本を並べているだけ。いちおう段ボール箱に入っていて、それが本棚のように積まれている。段ボールのなかは、高村薫宮部みゆき村上龍と文庫本が作家別に仕分けされている。(210頁)
川本さんをして「よくいえばパリのセーヌ河畔の屋台の古本屋のよう」と言わしめた路上古本屋は、たしか以前南陀楼綾繁さんも取り上げ、知る人ぞ知る存在となっている。実はこの間の連休に、わたしもここを初めて訪れていたのである。
一ヶ月ほど前のことだったか、長男が知人に連れられ、町屋駅近くにある荒川自然公園に遊びに行った。そこには色々なタイプの自転車やカート(足こぎ)があり、乗り回すコースが設けられた交通公園もあって、存分に楽しんで来たらしい。
興奮した子供から、「公園にいく途中、本をいっぱい並べた古本屋さんがあったよ」と教えられたのである。心動かされつつ関心がないふりを装ったものの、結局我慢できず、子供の大げさな表現に騙されたつもりで公園に遊びに行ってみようと子供たちを連れ出したのだった。
さいわい好天に恵まれたので路上古本屋は開店していた。「これが噂の…」と感激しながら並んでいる本をゆっくり見ているうち、家族はすでにその先にある公園に着いてしまっていた。夕刊フジ連載・山藤章二挿絵本である中島梓『にんげん動物園』の元版(角川書店)を250円で入手することができた。
そのおりも、町屋駅高架下の風景や、京成町屋駅改札口、京成町屋駅の南側の雰囲気を見ながら、映画「人間狩り」で捉えられた“町屋風景”の残滓があると喜んだのである。あれがオープンセットだったとは驚きだ。川本さんの本で触れられていた、「人間狩り」の美術を担当した中村公彦の回想記『映画美術に賭けた男』(草思社)を読み、あらためて町屋歩きを敢行したいと心に誓った。

*1:ISBN:4480422609

*2:もしくは羽田の海老取川の川景色。237頁から238頁。