「古本屋成立史」から庶民史・人間史へ

早稲田古本屋街

向井透史さんの新著『早稲田古本屋街』*1(未來社)を読み終えた。内容についての感想を書く前に、「早稲田古本屋街」と自分との関わりについて、思い出し記しておきたい。
“早稲田は神保町より安い”とは巷間よく言われることで、古本好きなら誰でも共通認識として持っている知識である。古本屋でバイトをしていたくらいだから、仙台にいた頃から東京の古本屋には興味を持っており、何かの機会にそういう話を耳にした(目にした)のだろう。いつか早稲田に、と思っていた。
だから、初めて訪れたのも、たぶん東京に暮らすようになる以前のことではなかったろうか。どうも曖昧で困るけれど、早稲田大学で学会が開かれたのを機会に、むしろ早稲田古本屋街目当てで学会はついでという感じで、ワクワクしながら早稲田古本屋街を訪れたような気がする。
東京がわからず、しかも地下鉄に乗るのが怖いという田舎者だったので、神保町に行くためにJR神田駅で降り、靖国通りをしばらく歩いて最初に目に入る「ブックブラザー源喜堂」から一店一店丹念に棚を見廻るうち、白山通りとの交差点に差しかかるまでにはすでに疲れ切っていたというほどの物知らずなわたしである。最初に訪れた早稲田古本屋街も似たような経験をした。
早稲田大学から高田馬場駅に向かって早稲田通りを歩き、やはり一店一店見廻っていたわけだが、早稲田が神保町と違うのは、通りの両側に古本屋があること。せっかく訪れたのだから開いている店は全部回りたいという欲張り根性を出して、ある程度歩いたら反対側に渡って、それまで通り過ぎた店に入り…といったことを繰り返したような気がする。やっぱりへとへとに疲れた。
かくて神保町にしろ、早稲田にしろ、地方に住んでいた身として抱いていた憧れの場所をついに訪れたという嬉しさと、目に入ったすべての店に入った結果の重い疲労感という二つの思い出がまとっている。
向井さんの本は、早稲田にある古本屋店主たちの聞書であり、どのような経緯で古本屋となるに至ったのかという興味深い話を集めたものだ。読む前は、早稲田にある一軒一軒の古本屋という「点」が、早稲田通り沿いに連なるという「線」になり、最終的に早稲田地域にある「面」としての古本屋街空間を描き出すものなのかな、というアウトラインを漠然と予想していた。
ところがわたしの予想とはまったく逆で、本書の構成は、まず大雑把に早稲田地域の古本屋街の歴史を描き出し、そしてそこから一気に視点をミクロにして一店一店の歴史をたどるものだった。ミクロからマクロでなく、マクロからミクロへ。
しかもミクロの視点で終わるのではない。ミクロの視点での聞書を積み重ね、読んでいるうち、自然に空間としての早稲田古本屋街の文化的雰囲気が像として結ばれる。つまり読み終えると、読者はマクロの視点から早稲田古本屋街を把握しきっていることに気づかされるのである。
現在の早稲田古本屋街は戦後にできあがったもので、それ以前は正門前から神楽坂にかけて広がっていたという指摘は、言われてみれば当たり前なのだが、所与のものとして今の早稲田古本屋街を受け入れているわたしにとってみれば、とても新鮮な指摘だった。
大学に密接して存在する古本屋街ではあるが、戦前までの早稲田古本屋街と戦後のそれは別個に考えるべきであり、戦後の早稲田古本屋街は「本がない時代」「本が売れた時代」とぴったり寄り添うように形成され、歩んできたのである。
本書が構想されるきっかけは、次のような思いだったという。

現在とは違う、「なるしかなかった」というような、そのような道を歩んで「大学の街」で古本屋を開く。早稲田の店主の話は、いつも「業界史」でなく「庶民史」なのがいいな、と思っていたというわけです。それと、自分がなんとなく過ごしているこの街での古本屋生活のルーツを知りたいという思い。(「あとがき」)
早稲田の創業店主たちは、地方出身の次男三男といった立場の人が多い。縁故をたより高校卒業後東京に働きに出てきて、たまたま勧められ勤めたのが古本屋だった(個人的にもっとも興味深かったのは、平野書店さんの話)。むろん主体的に古本屋という仕事を選んだ人もいないわけではないが、大半の店主は職業選択の余地すらないまま古本屋の道に入っていったのである。
このような歴史は、敗戦直後の就職事情一般と無関係ではないのだろう。集団就職とはまた違うけれども、戦後の焼跡から出直し、世界に誇る消費都市として成長してゆくことになる東京の労働力として、地方の次男三男という男手が必要とされた時代。向井さんの思惑どおり本書が「庶民史」として面白いのは、一人一人の聞書からそんな世相が強く浮き出てくるからに違いない。
すでに神保町の各古本屋についてこうした成立史的な関心によって編まれた聞書があるのかわからない。あるとすれば、たぶん早稲田とはずいぶん違う色合いになり、またそれもまた一面での庶民史・社会史となっていることが推測される。
早稲田の古本屋街には、空き店舗ができたら適当な店舗を探していた人や独立を志していた人が居抜きで入るという場合が多い。かつて古本屋だった店舗が別業種になるのではなく、また古本屋になるのである。一店一店独立した店なのだが、早稲田に店を持つ人々が支え合ってひとつの「早稲田古本屋街」という文化的空間を支えていくのだという気概が濃密に感じられる。
本書を読むと早稲田にも新しい古本屋ができているらしい。もとからある古本屋では、向井さんのように二代目や三代目の店主に代替わりしつつある。いずれ彼ら二代目三代目に対する聞書が試みられるのならば、「なぜ古本屋を継ごうとしたのか」といった意味で、庶民史というより人間史の本になりうるのではないか。初代の聞書、二代目以降の聞書に加え、本書にも収められたような古本市奮闘記を資料として蓄積しつづければ、とびきりダイナミックな東京の庶民生活史となるに違いない。
最後にひと言。現在も行なわれている「早稲田青空古本市」が穴八幡を会場として開催されるようになったいきさつが第四章「古本市、はじまる」でふりかえられている。このあたりが面白い。京都下鴨糺の森の古本市といい、同じく京都百万遍知恩寺の古本市といい、「市」は中世のむかしから無縁の場と不即不離の関係にある。神保町の古本市を靖国神社でやってほしいという持論をまたしても主張しておきたい。