アナロジスト礼賛

社長のためのマキアヴェリ入門

旧知の齋藤さんが運営されている“鹿島茂教授の仕事部屋”を訪れるのをしばらく怠っていたら、「公認ホームページ」なるものもできていたことを知り、驚いてしまった。
そもそも昨日書いた『文学全集を立ちあげる』(文藝春秋)と並行して、『社長のためのマキアヴェリ入門』*1(中公文庫)も読んでいたのである。そうしたら、書店に『パリの秘密』*2中央公論新社)という新刊が並んでいて驚喜し購った。これも近いうち読むだろう。
そればかりでなく、朝日新聞社から編著として『宮家の時代』という本が出(これは手にとってパラパラめくっただけ。でもいずれ買うだろう)、また“鹿島茂教授の仕事部屋”の情報によれば、月末には小説『パリでひとりぼっち』も講談社から出るという。久しぶりに鹿島本の季節が到来したようである。
さて今日は『社長のためのマキアヴェリ入門』の話である。元版(『社長のためのマキアヴェリズム』*3)もむろん購入していたのだが、読まないうちに文庫に入ってしまった。悔しいので文庫版を読むことにしたわけである。
本書はマキアヴェリの古典的名著『君主論』の現代的読み換えである。君主を社長と読み換え、『君主論』が経営術、ビジネス書として現代においてもいかに貴重なヒントに満ちているかを説いた本である。
ビジネス書というジャンルにはまったく関心がない人も多いだろう。わたしもその一人である。そもそもそうした世界に無縁であるゆえかもしれないが、どうもビジネス書のたぐいを読む気が起こらないし、売れる理由がわからない。
君主=社長と読み換えて読むという提言であれば、誰だってできるだろう。でも実際ビジネス書として『君主論』が有効に読まれてこなかったのは、そうした単純な読み換えだけでは済まないからである。マキアヴェリが生きた時代で有効な言葉や概念があれば、経済界とは無縁の政治用語・軍事用語もある。これらをいかに読み換えるのか。そこが腕の見せ所であり、鹿島さんの発想力に富んだアナロジカルな思考が遺憾なく発揮されたのが本書であった。
たとえば『君主論』に出てくる傭兵軍は「間接金融」(銀行や信用金庫などからの融資)のことだと言う。マキアヴェリは、傭兵に頼れば国の将来はおぼつかないとする。これは企業にとっての間接金融にそのままあてはまる。
同じく頼りにならない外国支援軍は「第三者割当増資」「株式譲渡」に該当し、もっとも頼るべき自国軍は「ストック・オプション」(社員による自社株買い)であるとする。こうしたアナロジーによる説明は説得力がある。
マキアヴェリはこう言う。「君主は、たとえ愛されなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない」。恨みを買わないことと、恐れられる存在であることは両立しうると言う。「為政者が自分の市民や領民の財産、彼らの婦女子に手さえつけなければ」という条件付きで。
鹿島さんはこれを受け、社長はときには冷酷にふるまうことも必要で、そうした処罰(免職、左遷、降格)を受けたからといって、社員は即恨みを抱くわけではなく、恨みは別のところから生まれてくると説く。

しかし、社長が社員の妻や恋人、あるいは娘に手を出したりすることは厳に戒めなければならない。とりわけ同じ高級クラブに社長と専務が通っているとき、社長が専務の愛人であるホステスを奪うというようなことはまちがってもしてはならない。色恋の恨みは恐ろしいのだ。(96-97頁)
うーむ。このくだりを読んで思い出したのは、先日観た松本清張原作の映画「黒い画集 第二話 寒流」だった。たしかにあの作品では、池部良が上司平田昭彦に抱く恨みの根底に愛人新珠三千代を奪われたことがあった。新珠のことがなく、ただたんに宇都宮支店長に左遷されただけでは、あのように執拗な報復攻撃はしないだろう。変なところでまた説得力を感じてしまった。
アナロジーはときとしてわがことをも素材になる。企業は時代状況の変化を予測して、成績がいいときでも「保険」をかけておかないと、あとで痛い目にあうとする。この場の保険とは、信越化学工業社長金川千尋氏の経験談を引用し、「オールドエコノミー」だという。高収益を期待できない旧来からの部門のことだ。そこから転じて自らの執筆生活についてたとえ話を繰り出す。
いま、私は、こんな風にビジネス書っぽい分野やお色気もの、それに小説などの「新規事業」にも手を染めて、私にとってのオールドエコノミーであるところのフランス文学よりも「高収益」をあげてはいるが、だからといって、それに特化したりしないように心掛けている。つまり、フランス文学という「オールドエコノミー」については、たとえ原稿料が安くとも、それを手放したりせず、メディアを選んで地道に書きついでいるのだ。「新規事業」は一時の熱狂がさめれば、ガクンと受注が落ち込むことは、明らかだからである。(189頁)
これを読んで思わず笑ってしまった。とともに、自分の生活までアナロジカルに客観化してしまう鹿島さんの思考癖に、そんな言葉はないかもしれないけれど、「アナロジスト」という言葉で賛辞を贈りたくなったのである。