玉石混淆丸ごと呑み込め

文学全集を立ちあげる

同じような好みを持ち、対象に対する知識も同程度の友人と、好みのものについてあれこれマニアックに語ることは無上の喜びである。ただ、語るにしても、気の向いた話題にあちこち飛びながらまとまりのない話をするのではなく、何かの目的を持ってのことであれば、話題は締まって話をするのにも充実感を感じるのに違いない。残念ながらそうした経験はあまりない。
丸谷才一鹿島茂三浦雅士三氏の鼎談『文学全集を立ちあげる』*1文藝春秋)は当代きっての読み巧者でありアンソロジストである三人が、あれこれと議論しながら文学全集を編み上げる内容であり、面白くないはずがない。全体で330頁弱あるうち、「世界文学全集篇」が三分の一、「日本文学全集篇」が残り三分の二を占める。
世界篇を読んでとくに思うのは、三人とも「文学全集」に候補として入るような古典作品はほとんど読んでいるのではないかということ。丸谷・鹿島両氏は外国文学者でもあるわけだからある意味当然なのだが、出てくる小説タイトルほとんどすべてについてああだこうだと何かしら感想が飛び出す。ただひたすら圧倒されたのである。
外国文学にはあまり親しみがないわたしにとって、選考からときおり脱線する雑談に面白味を感じた。

丸谷 D・H・ロレンス(1885〜1930)と一緒に一巻にしてしまうという手はあるね。僕はロレンスはあまり好きじゃないけれど、外すわけにはいかないでしょう。
鹿島 「チャタレイ夫人の恋人」は入れなきゃ。
丸谷 さっきのディヴィッド・ロッジが、「何と言っても動物を書かせたら、うまいのはロレンスだ」と言ってる(笑)。読み方が鋭いなあと感心しました。
三浦 たしか「チャタレイ」でも、犬はすごくよく書けてたけれど……。
丸谷 いや、一体にうまいでしょう。人間を動物的に把握しているんだろうね、あの人は(笑)。(29頁)
「日本文学篇」は一貫して三浦さんがリードし、三浦さんがあらかじめ構想してきた巻立てをもとに議論が進む。丸谷さんが提示した大前提は、古典と現代を分けるのでなく、全体で一つの日本文学全集として考えること、基準として「いま読んで面白いこと」であった。
そこに加え、三浦さんは、本の印刷物としての流通、言わば享受史的な観点を提示したり、古典を19世紀までに広げ、樋口一葉幸田露伴をそちらに含めること、古典も人名で巻立てするといった刺激的な提案を行なう。
20世紀以降の近現代文学では、漱石・谷崎が各3巻であるほか、鴎外・大岡昇平が2巻、それ以外複数巻はいない。大岡昇平2巻というのは、「野火」「俘虜記」「花影」などに太平洋戦争の記録として「レイテ戦記」を入れようという考えによる。ここで野間宏の戦争小説と大岡昇平のそれの違いを論じているが、これもなるほどと思わせる。
「いま読んで面白いこと」というのが文学史的価値に優先するから、いったいに三人の評価は芥川や志賀直哉に冷たい。上に掲げた複数巻の人々を除き、近現代で一人一巻割り当てられたのは以下の人々である。
正岡子規島崎藤村高浜虚子斎藤茂吉永井荷風柳田國男折口信夫北原白秋萩原朔太郎宮沢賢治西脇順三郎内田百間川端康成横光利一石川淳宇野千代坂口安吾井伏鱒二太宰治吉田健一三島由紀夫大江健三郎
ファンとしては、百間や石川淳吉田健一が一巻というのが嬉しい。逆に三島などは、かろうじて一巻を保ったという低評価であった。丸谷さんは「そもそも僕は、三島由紀夫という人をあまり評価できないけど、君たちが一巻つくると言うんなら強く反対はしない」という辛い評価である。結果「仮面の告白」「愛の渇き」「美しい星」などを中心に一巻となった。「美しい星」はもともと好きな小説なので満足したうえ、未読の「愛の渇き」が高い評価だったので、読みたくなった。
ある作家を一巻扱いにするか、二分の一巻扱いにするかという判断も面白いが、どの作品を入れるかという選考過程もスリルがある。丸谷さんや鹿島さん、三浦さんが侃々諤々、「これは面白い」「これはつまらない」と、ばっさばっさと鮮やかに名声が確立している近代文学作品を切ってゆく様子を読んでいくにしたがい、小説を読むというのはそういうことなのだと気づかされるのである。
ただ、このような評価ができるのは、つまらない小説も多量に読んでいるからこそであって、これは映画にも共通する話だが、鹿島さんのように玉石混淆の作品群をとにかく読み、観るというパワーが玉石を見分ける判断力を養成するのである。どこの馬の骨かわからないようなものに喰いつく勇気はなく、評価が定まったものしか安心できないわたしのような姿勢では、いつまでたっても判断力は身につくまい。