プラモデル私史

日本プラモデル興亡史

井田博さんの文庫新刊『日本プラモデル興亡史―子供たちの昭和史』*1(文春文庫)を読み終えた。
著者の井田さんは大正9年(1920)現在の北九州市に生まれた。子供の頃から模型飛行機が好きで、それが嵩じて戦前は実家の食用油屋の片隅で模型屋を開業、かたわら飛行記録を競う模型飛行機競技大会で優勝した経験もある。戦後に模型屋を再開し、昭和41年(1966)にプラモデル専門誌『モデルアート』を創刊するという斯界の草分け的存在である。
この本を読んでいたら、プラモデルに熱中した少年時代がよみがえってきた。『モデルアート』という専門誌は敷居が高く高級そうな印象があり、購入した記憶がない。もっぱら『ホビージャパン』誌が愛読誌だった。井田さんの本によれば、昭和30年〜40年代にプラモデルが隆盛したとあり、わたしがプラモデルに熱中していた頃の状況は初期の厚い叙述にくらべれば簡潔に記されている。
わたしは昭和40年代前半に生まれた。あっさりした叙述のなかにありながら、プラモデル大流行を支えたと書かれている昭和50年前後の「スーパーカーブーム」と、昭和50年代後半の「ガンプラブーム」をもろに受けた世代である。前者は小学生のとき、後者は中学生のときだ。
スーパーカーブームを巻き起こしたコミック『サーキットの狼』に熱中し、ロータス・ヨーロッパや、ポルシェ・カレラ、トヨタ2000GTなどのプラモデルを作った。わけも知らず、フロントライトに×のシールを貼るのが格好いいと思っていた。
もとより「機動戦士ガンダム」は再放送で人気に火がついたと言われているが、わたしの郷里では「機動戦士ガンダム」はもともとリアルタイムでは放送されず、すでに都会で盛り上がっているあとに再放送で初めて流されたのではなかったか。早朝だったような気がする。
ガンプラもまた、熱狂的大ブームをひと山越したあたりに熱を入れだしたように記憶する。だからデパートに朝から並んでプラモデルを入手した、という経験はない。スムーズに買えたような気がするが、それでも友人たちと自転車で遠出して、市内にある大きな模型屋まわりをして好みのキットを買い求めていた思い出がある。
プラモデルは大学生の頃まで趣味として作りつづけた。高校生の頃は、「スターウォーズ ジェダイの復讐」が公開されたこともあり、スターウォーズ関係のプラモデル(外国製)に凝った。大学に入ったら入ったで、二年生の時鈴鹿日本グランプリが開催され、にわかに国内でF1ブームが巻き起こったこともあり、田宮のF1プラモデルを作っていた。ロータス・ホンダや、マクラーレン・ホンダを作った記憶がある。いっぽうオートバイへの関心が高まり、スズキ・GSX1100S カタナの1/6モデルを丁寧に作ったのも懐かしい。半ば壊れかけているけれど、いまカタナは実家の書棚の片隅に飾られている。
こうしてみると、子供の頃は間断なきがごとく何かしらプラモデルを支えるブームがあって、その都度プラモデルを購入して作っていたのだ。いま思えばプラモデルを作るという営みは、集中力の涵養につながったのではないかと思う。
そのいっぽうで苦い思い出もある。小学校低学年の頃だったか、もう少し前だったか、その年齢では作るのが難しいような部品数の多い自動車のプラモデルを買ってもらったことがあった。近くに住む親戚のおじさんに手伝ってもらいなさいと言われたものの、早く組み立てたいという一心で、部品をすべて切り離してしまったのである。いくら大人でも、すべて切り離された部品と説明書を見くらべながら組み立てるのはよほどの時間がなければ無理だろう。自分が悪いのだが、結局泣く泣く組み立てをあきらめたのだった。
井田さんの本を読んで、昔プラモデル好きだった頃のあれこれを思い出した。今でも時々プラモデルを見ると作りたいという衝動にかられることがないわけではない。けれども、凝り性だから、道具はもとより、塗料も指定どおりのものを揃えないと始められない性格ゆえ、それをまた一からやり直すのが面倒なので、プラモの箱に伸ばしかけた手をいつも引っこめている。