拾い読みの再発見

ぼくのシネマ・グラフィティ

性格的に本は最初から最後まで読み切る、通読するというのが基本姿勢なのだが、拾い読みの魅力も捨てがたい。拾い読み、あるいは立ち読み(わたしは立ち読みで通読した経験はほとんどない)をしたときと、購入してじっくり腰を据えて読むときとは、その本に対する印象が微妙に違うのはなぜだろう。
とりわけ買ってすでに読んでいる本などを、書店であらためて手にとってパラパラ拾い読みしたりすると、通読したときと違った印象を持ったり、通読したときには気づかなかったことに気づいたり、新しい発見がある。
もちろん通読から拾い読みまでの間、自分の関心が推移し、初読のおり気づかなかった点に気づいたということもあろう。ただそれにしても新鮮な気分になることが多い。場の雰囲気だろうか、不思議なものである。
久しぶりにブックオフで買い物をした。買った文庫本のうち2冊がダブりだったが、古本屋でもあまり見ない本だし、すでに持っている本より状態が良さそうな気がしたので買うことにした。
ブックオフの帰り道近くにあるラーメン屋に入った。注文が届くまで、買ってきた本をビニール袋から取り出し、パラパラめくる。すると、前述のような現象に襲われたのだった。
田中小実昌さんの『ぼくのシネマ・グラフィティ』*1新潮文庫、→2004/3/29条)は、映画批評というより、映画館めぐり・映画鑑賞を中心とした散歩エッセイというおもむきで、あらためて拾い読みしても、とても面白い本であることを再確認した。こういう本が文庫に入っていると思うと、言いしれぬ喜びがこみ上げてくる。
これをめくっていたら、小実昌さんが小杉勇について書いている文章が目に飛び込んできて驚いた。小杉勇については「陽のあたる坂道」の感想で触れたばかりだったからだ。「骨こそイノチ」という一文のなかで、小杉が出演している戦前の日活映画「五人の斥候兵」に触れ、「小杉勇は日本映画でははじめての美男でない二枚目スターだと言われた」(198頁)とある。
濱田研吾さんも『脇役本』のなかで書いているが、小杉は戦後監督もつとめた。小実昌さんは、「それも、つまらない娯楽作品と批評家には評判がわるかったが、重厚な演技の名優とほめられるよりも、たくさんの映画の監督をさせてもらったほうが、本人はたのしかったかもしれない」と小杉の心情を忖度している。
次に戸板康二さんの『六代目菊五郎』(講談社文庫)をめくってみる。すると、六代目好きだった劇評家三宅三郎関東大震災に遭遇したときの挿話を見つけた。戸板さんが愛読した三宅の随筆「貢と震災と妹」にあるという。

大正十二年九月一日、大震災が関東を襲った。三宅さんの高輪の家では、庭に畳を出して、余震にそなえていた。妹の由岐子さんと三郎さんは、思いに沈んでいる。突然由岐子さんが「三ぶちゃん、今何を考えているの」と活溌に訊ねた。三郎さんは「僕かい―今、市村座の明日初日の油屋の貢のことを考えているんだよ。きっと素晴らしいぜ。榮三郎初役のお紺さ、これもいいよ」と、急に雄弁になって話す。まだ市村座の焼けたことも、東京の半分が灰になって、当分芝居どころではないことも、ここにいる兄妹は知らない。(88頁)
戸板さんと言えば、ダブりではないものの、同じく買った本である佐野洋『推理日記2』*2講談社文庫)をめくったら、「グリーン車の子供」における「重大なミス」について指摘した一文があった。
「重大なミス」というのは、作品中中村雅楽が乗って事件に遭遇した新幹線について、初出は「ひかり」としていたのだが、本作が日本推理作家協会賞短篇部門賞を受賞したとき、選考委員(島田一男か土屋隆雄)から、そうすると矛盾があるということで、単行本などでは「こだま」に訂正されたことをめぐる問題とのこと。
佐野さんも選考委員の一人だったようだが、その後逆に「こだま」に直してしまったことが、さらに大きな矛盾を招いていると星新一さんから指摘され、佐野さん自身責任のあった立場としてこの問題を検討したうえで、選考委員として修正を求めた非を詫び、再修正の提案をしている。
一読、なるほど矛盾している。それにしてもわたしは一度読んでいるのだが、そんな点にはまったく気づかなかった。そうした点に眼が行きとどく島田さんや土屋さん、さらに星さんの炯眼に恐れ入った。
ちなみに、佐野さんの指摘のあと刊行された講談社文庫版『グリーン車の子供』では、「こだま」の部分はまったく修正されず、そのままになっている。佐野さんの提案が戸板さんの耳に入らなかったのか、あるいは検討したうえであえてそのままにしたのか、事情はわからない。