読前六読後四の弁

終着駅

丸谷才一さんの新刊『いろんな色のインクで』*1(マガジンハウス)を買い*2、同書冒頭の談話「藝のない書評は書評ぢやない」を読んだことには触れた(→9/25条)。
索引も完備した書評集なのだから、最初から通読するのでなく、興味のあるところだけ拾い読みをすればいいものの、損な性格でなかなかそうすることに踏み切れない。そもそもこれを読むのであれば、以前同じ版元から出た『木星とシャーベット』*3だって同じような事情で通読していないし、さらに遡って『山といへば川』『ウナギと山芋』『遊び時間2』『遊び時間』(以上すべて中公文庫)だって控えている。いずれもパラパラとめくっただけで、もったいなくて通読していない。
でもせっかくお金を出して買ったのだし、任意のページを開いて目についたところをさっと目を通してみる。熟読までいかないところが自分の気の小ささである。すると、結城昌治さんの遺作となった『泥棒たちの昼休み』*4講談社文庫、未読)について評した次の一節が目に飛び込んできた。

近頃は優秀な新人が輩出したから話が違ふと思ふが、以前は玄人筋の読者に、探偵小説は翻訳ものしか読まない、ただし結城昌治のものは例外、といふ人がかなりゐた。(…)第一、舌を巻くしかないくらゐ文体がよかつた。常に事柄がすつきりと頭にはいつて、文章の足どりがきれいだつた。あれだけの上手はいはゆる純文学のほうにもさう大勢はゐないと一部では認められてゐた。これは結城自身のひそかに自負してゐたのではないか。(225-26頁)
結城昌治さんの文庫本は、角川・中公・講談社集英社などかなりの数持っている。松本清張佐野洋さんの文庫本と一緒に積み上げていて、いま数えてみると34冊もあった。2年以上前、結城作品を熱心に読まれていた南陀楼綾繁さん(id:kawasusu)の影響で集め、南陀楼さんから直接譲っていただいたものも含まれているはずだ。吉田健一も『大衆文学時評』のなかで結城さんを高く買っていたこともあり、関心を持たないわけにはいかなかった。
ところがいざ集まると、「いつか読める」という安心感が手伝い、結局そのまま。結城作品でこれまで読んでいるのは、『志ん生一代』(朝日文庫、旧読前読後2002/10/11・12条→“Ç‘O“ÇŒã2002”N10ŒŽ)や『死もまた愉し』(講談社文庫、同前2001/12/23条)・『俳句は下手でもかまわない』(朝日文庫)といった非ミステリ系の作品ばかり。
このほど講談社文芸文庫に連作長篇の『終着駅』*5が入り、これを古本で手に入れたことをきっかけに、ようやく手をつけることとあいなった。講談社文芸文庫版の解説は長部日出雄さんで、このなかでも丸谷さんが結城文学を高く評価した文章が引用されている(前記の書評とは別)。
ようやくここまでで、買って読むに至る経緯を書き終えた。ともすれば読後感想以上に、買って読むまでの動機は人によって様々だろうから、「読前」をくだくだしく書くのも無意味ではなかろう。もとよりそういう意図でこの「読前読後」を書いているのだから。
さて本書は、酔っ払って狭いどぶにはまり死んでしまった「ウニ三」という男の身元照会のため、知人たち数人が彼について語った供述が序章で綴られる。そもそも本書をミステリと思わないほうがよい。ウニ三の死因に謎があるとか、そういう話ではない。戦争にようやく生き残った男女の厳しい世渡りが描かれる。
戦争の前と、戦争中と、戦争の後では人の心もまったく変わってしまう。相手を信じながらも、戦争によってその思いを断ち切られざるを得なかった人間たちの哀しい姿。新しい薬が安く手に入るまで少しの辛抱だと言い聞かせながら、はかなく散ってしまった肺病の人びと。死屍累々、死んだウニ三の位牌を彼の知人が預かったと思うと、その人間が死に、次に二人分の位牌がまた別の知人へと渡ってゆく。
戦争をせっかく生き抜いたのにもかかわらず、敗戦直後の厳しい世の中で挫折せざるをえなかった人間たちは、結局ただ一片の白木の位牌となりおおせ、知人たちの間を転々とする。
「三章 痰屋」における、肺病で陽性反応を示す自分の痰を入院仲間に売る「丙さん」という勲章屋の爺さんの話が興味深い。入院している人びとのなかには、陰性反応が出て退院させられ、のんきに寝ていられなくなることを恐れる者もいる。弁護士の資格を取るために勉強したいのでしばらく入院したいという男もいる。「痰屋」はそんな人たちに自分の痰を売りつけるのだ。
同じ章に、入院仲間が死んでしまい、その出棺を見送りたくないという話が出てくる。「お棺が裏門から出てゆくというのが、自分も同じように出てゆく気がして厭なんだ」というのが理由だ。たしかこれは同じように重い結核で入院生活を送っていた結城さんの実感からきているのではなかったか。とすれば、「痰屋」の話というのも似たような話が実際にあったのかもしれない。
独白体やら落語体やら書簡体など、変幻自在に文体を変えて戦後を生き抜いた人のありさまを浮かび上がらせるその手法は私好みであり、文体の良し悪しといったことを考える余裕を与えられぬまま、一気に読まされたという感じだった。

*1:ISBN:4838713916

*2:余談だが、この本からは実にいい香りが漂ってくる。「小梅」キャンディのような甘い香り。製本に使う糊のためだろうか。

*3:ISBN:4838706103

*4:ISBN:4062647311

*5:ISBN:4061984187