珍しい中村雅楽物長篇

第三の演出者

創元推理文庫で今月刊行の予定となっている『中村雅楽探偵全集1 團十郎切腹事件』であるが、本日(11月15日)の時点でいまだ同社のサイトの「新刊案内」ではなく「近刊案内」にあるままで、書影もアップされていない。本当に今月出るのかしらん。
ところで『中村雅楽探偵全集』とあるからには、短篇だけでなく、『松風の記憶』や『第三の演出者』といった雅楽が登場する長篇もラインナップに含まれているのだろうか。せっかくだから長篇まですべて網羅してほしいと思いつつ、いっぽうで、ちょっとだけ、そうでなくてもいいかな、という複雑な気持ちにもなっている。
もとより雅楽物短篇ですら入手が難しくなっているが、講談社文庫に入っている『松風の記憶』や、文庫化すらされていない『第三の演出者』桃源社)はとびきり入手困難本に入るのかもしれない。あの“戸板康二ダイジェスト”のふじたさんですら、入手に苦労されたという話を聞いた。
ふじたさんには申し訳ないことながら、わたしは同書をけっこうあっさりと(ネット古書店にて)入手したように記憶している。いま調べてみると、2001年3月に2000円で手に入れて、その経緯を興奮まじりに報告していた(→旧読前読後2001/3/18条)。戸板さんの本を集め出してたかだか一年足らずの頃だから、僥倖と言うべきだろう。
さてこのようにせっかく高いお金を払って入手し、嬉しい思いをさせてもらったのだから、近々文庫版で簡単に読めるようになる前に元版で読んでおこうというせせこましい了簡で、買ってから5年半を経て、ようやく読むことにした。
本書は桃源社の「書下ろし推理長篇」というシリーズの一冊で刊行されている。第二期の配本ラインナップに入っており、他には佐野洋『ひとり芝居』、多岐川恭『変人島風物誌』、結城昌治『隠花植物』、土屋隆夫『危険な童話』、水上勉『蜘蛛の村にて』などが挙げられている。第一期にどんな作品があったのか、残念ながらわからない。江戸川乱歩の『探偵小説四十年』をめくったが、このシリーズには触れられていなかった。この時期(出たのは1961年)、こうした書下し推理小説シリーズが各社で企画され、一大ブームとなっていたとおぼしい。
この『第三の演出者』は、歌舞伎役者中村雅楽が歌舞伎の世界で起こった事件の謎を解くのではなく、新劇の世界で起きた殺人事件の謎を解く風変わりな設定となっている。函に刷られている「作者のことば」には、「一度機会があったら、新劇の世界の事件を、中村雅楽という歌舞伎俳優が推理したケースを書いてみたいと思った」とある。
もちろん戸板さんは歌舞伎の世界だけでなく、新劇の世界にも通暁していた人だから、新劇の世界を舞台にすることに無理があるわけではない。またこの作品の特徴のひとつは、「團十郎切腹事件」同様、安楽椅子探偵物になっていることだろうか。
ある新劇劇団の主宰者の病死と、彼の未亡人と弟子との恋愛関係の噂、主宰者の没後発見された遺作戯曲を追悼上演するための稽古中に起きた殺人事件について、関係者からの聞き書と、それらをまとめた雅楽物ではお馴染み竹野記者の手記だけを読み、最後に雅楽が犯人を指摘するという内容となっているのである。
合理的思考をむねとする雅楽の推理は歯切れがよく、人間関係を取り巻いている超自然的思考をひとつひとつ丁寧に取り去りながら謎に近づいてゆく。築地小劇場以来の新劇の歴史が、戸板さんの実体験を踏まえて反映されているものと思われるが、たとえば次のような不思議な光景は、戸板さんが新劇俳優たちと実際付き合っていたなかでの見聞なのではあるまいか。

食事をしたあと、少し身体を動かしたほうがいい、それも、外へ出なくても家の中で、行ったり来たりしてもいいらしいので、これは旦那様も、よくなさっていたことです。西洋のお芝居では、考えごとをしている役者が、舞台の上を行ったり来たりする型があるそうで、歩き方のけい古にもなるから、みんなこの食後の運動は怠らないようにと、旦那様は、ツバメ座の人たちに、よく云い聞かせておいででした。
 ツバメ座の人たちが、みんなで家で食事をすることが、以前からよくありましたが、食事のあとで、五六人が並んで、玄関を動物園の熊のように、行ったり来たりするのは、見ていて、とてもおかしいものだった事を、思い出します。(125頁)
このような謎解きとは無関係な細部描写について、読みながら戸板さんの経験の反映なのではないかとあれこれ拾い集めるのは愉しいものである。