殿山泰司の祖国

JAMJAM日記

読み終えてから数日経ってしまい、また読んでいた期間も数日間あったから、けっこう前の話になってしまうが、ある日のこと、夢に殿山泰司さんの本が出てきた。渡辺和博さんか蛭子能収さんかといったヘタウマ系のイラストが挿絵として添えられたエッセイ集を手に入れるという、妙な夢だった。
実際そうした本はないだろうし、持っているわけではない。あえて言えば『殿山泰司のしゃべくり105日』(講談社、→2005/2/20条)がこれに該当しそうだが、この本のイラストは南伸坊さんである。
もっとも本書を思い出させてくれた坪内祐三さんの『本日記』*1本の雑誌社、→11/12条)を読んだせいかと言えば、そうではない。夢を見たのはたしかあのくだりを読む前のことだったはずだから、不思議な符合と言えば言える。
せっかく殿山泰司本の夢を見たのだからと、未読の殿山本を読むことにし、『JAMJAM日記』*2ちくま文庫)を選んだ。1975年から77年の足かけ三年にわたる日記スタイルの本書、語り口のうまさもあって、殿山語で言えばまさにクイクイと読めてしまうのだが、実はとても強い中毒性を持ち、また激しい思想性(裏返して言えば虚無性)を持っているとも言える。
教育基本法衆議院を通過した。まわりが喧しくなっている。将来の国を支える子供の親として、また「いい大人」として恥ずかしい発言かもしれないけれど、個人的には「勝手にやってくれ」という気持ちでいる。殿山さんのこんな文章を読むとその意をさらに強くする。

日本の軍隊も日清・日露のころまでは、そこはかとなく人間性らしきものが存在してたようであるが、オレも兵卒として召集された太平洋戦争では、そこは人間不在そのものであった。日本の軍隊というのは、どうしてこんなことになったのかね。それには天皇制の問題もからんでくるだろうけど、とにかくだね、軍隊という集団で人間性が喪失すれば、当面の敵は、相手国の兵隊ではなくして、味方の兵隊という結果になるのである。わかっていただけますか? もうニッポン人は戦争を拒否するだろうから、こんなことはどうでもいいか。祖国だってどうでもいいんだオレは。(99頁)
国を愛するかどうかというのは、究極的には戦争になったときそれが試されるのだろうな。軍隊経験者、あるいは戦争体験者の本を読むにつれ、そういう経験がない人間が愛国精神を語る資格があるのだろうかと疑問に思う。
そんなことを言っていれば、戦争を放棄すると宣言している日本には、いずれ国会議員にも国民にすらも戦争体験者がいなくなるから、祖国への愛を語る資格のない人間だらけになってしまう。それでいいのかと言われれば反論できないけれど、「戦争を知らない」人間が、賛成反対いずれの立場にせよ、祖国愛について語ることに白々しさをおぼえるのだ。「戦争を知らない」世代が祖国愛という問題にアクセスする接点をいまだ見いだせずにいるから、「勝手にやってくれ」なのだ。ヒヒヒ、文句あっか。
兵器を持つことはタンカンにいえば戦争放棄とつながらないよ。その国に住む人間が、その国が守るに値する国だと信じれば、武器なんかなくても守れるものだとオレは信じてるんだけどね。ちがいますかね? 国家なんかどうでもいいと思っているのに、こんな発言をするのはオカシイな、ヒヒヒヒ。(121頁)
三島由紀夫楯の会自衛隊へ乗り込むとき〈唐獅子牡丹〉を唄ったという説がありますが、これはニッポンにはイザというトキに唄うべき唄がないということを象徴しているように、オレには思えるのです。どうでもいいことか、ヒヒヒヒ。(219頁)
「どうでもいい」と最後に吐き捨てるときの文章にこそ、鋭い洞察が含まれている。祖国を見捨てた(ような姿勢をとる)殿山さんの言葉を噛みしめながら、しばらく傍観者でいることにしよう。