賭けに負けても読書の快楽

読書中毒

先日の池袋西口公園古本まつりにて、小林信彦さんの『小説探検』*1本の雑誌社)という本を購った。
同書を目にしたとき、買おうか買うまいかしばし迷った。少なくとも私の持っている小林さんの文庫本に同じタイトルのものはないからだ。入っているとすれば、文春文庫から出ている読書エッセイのいずれかに違いない。
そう思って目次を見る。わたしの関心のあるところで言えば、「永井荷風の「小説作法」」「『流れる』と文化の終わり」「松本清張の語り口」…。うーん、既所持の文庫本のなかに、同じタイトルがあったかどうか、はなはだ記憶が怪しい。未読であれば目次もあまり目を通していない。買わずにあとで未文庫化本とわかれば悔しいので、えーい、これは賭けだと、思い切って大枚1000円(!)を払い買うことにした。
帰宅後すぐさま調べてみると、悪い予感が的中、『読書中毒―ブックレシピ61』*2(文春文庫)の元版だった。しかも文庫版には「読書日記」まで増補してある。
小林さんの熱心な愛読者であれば、この関係は説明するまでもない事実に属するかもしれないが、哀しいかなわたしは未熟な小林ファンなのだった。どなたかが書かれていたようにも思うが、小林さんの本は単行本から文庫になるときに改題される作品が少なくないような気がする。未熟なファンがこれに振り回されてしまうのも仕方がない、と自分を慰める。
読まないからこうなるのだと、さっそく『読書中毒』を読んだ。姉妹編とも言うべき読書エッセイ『本は寝ころんで』*3(文春文庫)を読んだとき(→2004/12/28条)もそうだったが、なかで触れられている本を無視することができなくなるほど、文章による喚起力・影響力は強い。
いま、読書エッセイにおける影響力の強い人(そこで触れられている本を読みたくさせる読書エッセイの書き手)を三人あげろと言われれば、躊躇せず丸谷才一小林信彦北村薫の名前をあげる。奇しくもこの三人は、それぞれ稀有な物語構築力を持った小説家という点で共通する。いい小説家は、小説の目利きとその紹介術においてもすばらしい才能を持っているということか。
読むと、「ぼくは題名を考えるのが苦手である」という文章にぶつかった。「題名についての果てしない悩み」という一篇だが、ここで小林さんは、タイトルを付ける悩みについての経験をあれこれふりかえり、自作タイトルの出来ばえに点数をつけている。文庫になるとき改題されるのも、こういう性分と関係するのだろうか。
さて本書は、あいかわらず率直な物言いでピントのずれた批評家をやっつけ、独断的な、しかし深くうなずかされる鋭い小説論・読書論をぶちあげている。次のような一節の何と晴れやかなこと。

読む本は自分で探すべきである。〈年末年始〉に読む本をひとりで探すところに読書家の新の快楽があるはずではないか。(68頁、太字部分は原文では傍点)
また次の一節などは、わたしが槍玉にあげられている一人(「田舎者の読者」)であるにもかかわらず、逆に爽快さをおぼえる。
荷風の小説は徹底して〈都会人による都会人のための小説〉であり、田舎者の読者がふえるにつれて、追放されてゆく運命にある。その事実に哀惜の情を抱くのは、いま三十代後半の人あたりまでであろうか。(90頁)
本書を読んで読みたくなってきた作家の作品について、今後自分自身の心覚えのため箇条書きで列挙しておきたい。

  • パトリシア・ハイスミス作品(繰り返し飽きずに小林さんはハイスミス作品を褒めたたえる。河出文庫でかつてコレクションが出たとき、あらかた買ったものの、いま処分してしまい、手もとには、吉田健一訳のちくま文庫『変身の恐怖』しかない。惜しいことをした。)
  • 谷崎潤一郎作品(未読のものからとりあえず。あと『鍵』と『蓼食ふ虫』)
  • バルザック作品(推奨されている『従妹ベット』あたりか)
  • そしてもちろん小林信彦作品(とりあえず未読の『世界でいちばん熱い島』『ドリーム・ハウス』)

最後に、この紹介文がとどめを刺す。

暑さで寝つけぬままに、かつて感心した平野謙の『島崎藤村―人と文学』(河出市民文庫→新潮文庫)を読んでみたら、これはミステリよりも面白かった。「氷の微笑」の犯人をしのぐ島崎藤村の〈完全犯罪〉を名探偵・平野謙がじっくりと解いてゆくのだ。花田清輝の解説にも抜群の芸があって、まだ読んでいない読者は古本屋で探してでも読む価値が絶対にあります。
わたしは、ミステリのジャンルに含まれない本がミステリ的だといったような、こういう紹介のしかたにすこぶる弱い。いずれ読むことになるのだろうなあ。探求リスト入り。