やっぱり大好き成瀬さん

成瀬巳喜男の設計

成瀬巳喜男監督の映画は、ロケではなく、たいていセット(オープンセットもしくはスタジオセット)が組まれ撮られていたということは、成瀬ファン周知の事柄に属するのだろう。
わたしは、先月見た世田谷文学館での「成瀬巳喜男展」やその前後に読んだ佐藤忠男さんの『映画の中の東京』で初めて知り、強く印象づけられた(3/19条3/20条)。佐藤さんは、偶然的なことに左右されにくく、大声を発して現場を統率する必要のないセットが好まれたからと理由を説明している。
となれば重要なのは、セットを組む担当者、すなわち美術監督であろう。「成瀬巳喜男展」では、成瀬監督と多くの作品で組んだ美術監督中古(ちゅうこ)智さん提供の資料が多く展示され、名作「浮雲」において、パンパンに身をやつし闇市の路地に仮寓していた高峰秀子の部屋が再現されていた。
その日の帰り道、偶然立ち寄った成城の古本屋(キヌタ文庫)で、当の中古さんが成瀬監督を語った成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する』*1筑摩書房)と出会ったのは、まさに「待ち伏せ」を受けたということか。
本書は蓮實重彦さんが聞き手となって中古さんの美術監督についての仕事や黄金期の撮影所(PCL→東宝)の世界、成瀬監督の演出術などをインタビューした対話である。いまとなっては成瀬映画を読み解く貴重な文献となるのだろう。
ちなみに中古さんが美術を担当した成瀬映画は、同書巻末の「中古智美術監督作品目録」「成瀬巳喜男監督作品目録」によれば、「まごころ」「芝居道」「石中先生行状記」「舞姫」「めし」「お国と五平」「妻」「山の音」「晩菊」「浮雲」「くちづけ」「驟雨」「妻の心」「流れる」「杏っ子」「鰯雲」「コタンの口笛」「女が階段を上る時」「娘・妻・母」「妻として女として」「女の座」「放浪記」「女の歴史」「乱れる」「女の中にいる他人」「ひき逃げ」「乱れ雲」と数多い。代表作と言われる作品も含まれる。
本書では、このなかでもとくに「めし」「山の音」「浮雲」のセットについて詳しく語られている。聞き手の蓮實さんも驚いているが、「めし」「山の音」では、家の前の道に至るまですべてセットだったとは驚きだ(「山の音」は未見)。「浮雲」に至っては、前記高峰秀子が住む闇市全体(焼け残った鉄骨など)がセットだという。
成瀬監督は、屋内を撮るにしても窓の外から見える隣の家や景色にもこだわり、また、窓の外から屋内を撮ったり、業界用語で言えば「ドンデンを返す」という手法を多用したため、建物の一部分だけで済まず、建物の外側もきちんと作り込まなければならなかったとのこと。
そんなこんなで成瀬映画におけるセット撮影の苦労話や演出秘話がたくさん詰めこまれ、これから成瀬映画を見るたび何度もひもとく本になるだろうことは確実だ。ひとまずいま読んでの感想としては、中古さんの口から語られた成瀬監督の性格についての証言に注目したい。

あのいんぎんで善良な人柄であったように思える成瀬さんが、陰では「意地悪じいさん」という、いくぶん滑稽味を帯びたあだ名でささやかれていたことの原因といえば、天邪鬼的な性格にあったことと思い合わせて考えられてくるからです。(141-42頁)
この成瀬監督の「天邪鬼的な性格」が、「めし」における原節子の役柄に投影されているのではないかという指摘がここにつながる。「めし」で言えば、上原謙原節子夫婦が住む大阪の家のモデルのひとつに、成瀬監督が一時期住んでいた祖師谷大蔵の家があったという。
駅から撮影所通りといって商店街が百メートルばかりあって、その商店街を過ぎたところに交番があり、それを左へ折れて三軒目の左側、生垣と森に包まれた七十坪ばかりの土地に、二十坪の小住宅を買い求められました。(134頁)
先日祖師谷大蔵駅から、砧公園内にある世田谷美術館まで歩いたとき、駅から南に延びる商店街を通ったが、たぶんそこなのだろう。東宝撮影所が近くにあることは承知していたが、そこまで足を伸ばすことはしなかった。こんなに細かく場所を書かれると、いちじるしく“散歩者魂”をくすぐられてしまうではないか。
さて、性格の話に戻る。晩年癌におかされ手術のため入院することになった成瀬監督は、都心部の大病院ではなく、地元成城の病院を選んだという。中古さんは、そこに「自分の住んでいる町にこだわる」という監督の性格を見いだすものの、その裏側に隠された本性を指摘することも忘れない。
成城の病院じゃどうして事足りないんだ。成城の町で買物はどうして足りないんだというほど、やっぱり成城という町、あるいは祖師谷という町も同じだと思うんですよ。一緒につき合える、信じる人たちとの共感を持っていたんですね。それなら近隣の人と親しくいろいろ交歓していくというようなことがあったかと思うと、それは決してない。自意識の非常に強い人ですから、自分からまわりに交際を求めるなんてことはしないわけですよ。(267頁)
何だか自分自身の性格をずばり指摘されたようでもあり、気恥ずかしさを感じてしまう。だからわたしは成瀬巳喜男という人間に強いシンパシーを抱き、人間としての理想像を求めたいと願ってしまうのだった。
余談。映画の場合、カメラではなく「キャメラ」、カメラマンではなく「キャメラマン」と呼ぶほうが何となくしっくりするのは、不思議である。