またしても北村本の誘惑

謎物語―あるいは物語の謎

海辺のカフカ』というある意味強烈な本を読んだせいか、次なる電車本を選ぼうとしたとき、はなはだしく迷った。続けて小説を読もうか、さすがに連続して小説を読むのは厳しいから、エッセイ集にしようか、エッセイを読むにしても、一篇が長めのものがいいか、あるいは夕刊フジ連載系の短くてたくさん詰め込まれたたぐいにするか。…
書棚を眺め、積ん読の山を取り崩しながら、文庫本を手にとっては戻すということを何度か繰り返したあげく、途方に暮れた。そのとき目に飛び込んできたのが、北村薫さんのエッセイ集『謎物語―あるいは物語の謎』*1(中公文庫、現在角川文庫版*2も入手可能)である。縦に置こうにも横に置こうにも入らないというキャパシティを超えた書棚からはじき出され、積ん読の山と書棚の間にある、古いパソコンソフトなどを入れてある段ボール箱の上に、行き場なく置かれた本のうちの一冊だった。
過去の記録を検すると、本書を古本で買い求めたのは2000年7月。その直後読み始めたものの、最初の数章を読んだところで中断していた。このときなぜ読み通せなかったのか、すでに北村作品の愛読者だったから、好き嫌いというより、このとき別に読みたい本が次々に押し寄せたため、中途半端なまま放っておかれたということだったかもしれない。
ちょうど『海辺のカフカ』を読んで「小説には謎が必要である」「私は謎が仕掛けられた小説が大好きである」という意識を強くしたおりもおり、次にこの北村さんの本を読み、小説と謎の関係に思いをめぐらすことは、なかなか洒落た読書連鎖ではないか、そう考えたのだ。
本書は、小説において「謎」というものがどんなに重要で、かつ必要なのか、北村さんのテリトリーであるミステリだけでなく、一般の小説、さらには落語や童話、エッセイなどなど、さまざまな素材をもとに説き及ぼす、これまた刺激的なエッセイ・評論である。
第一回の「まずは前置きとトリックについて」で、小説と謎の相性について、こんなふうに述べられている。

小説という形式は、実に懐が深い。推理問題ぐらいは簡単に呑み込める。そして謎物語の無機的な世界を作り上げるのに、この表現形態は、まことに適しているのだ。だからこそ、本格という名の物語が書かれ続け、読まれ続けて来たのだ。それを許す大きさこそが、即ち小説の特質の一つなのだ。(18頁)
ここでは小説のことしか念頭に置かれていないけれど、北村さんの視野はすばらしく広い。頭のいい人は、たとえ複雑な話であっても、瞬時にその本質、骨組みを見抜く能力をもっている。演繹的というのだろうか。北村さんはその典型で、上に書いたように、小説に限らず、さまざまなテキストに《謎とその論理的解決》という構造を見いだす。本書に紹介されているのはミステリにとどまらないのである。それを読者に紹介する筆致のなんと愉しそうなことか。書き手が味わう愉悦が、ストレートに読者にも伝わってくる。
本書の別の場所では、「いずれにしてもトリックと物語は対等の結婚相手なのである」(85頁)という名言が吐かれるが、ここで取り上げられているのは文春文庫『巻頭随筆』に収められている作曲家服部公一氏のエッセイである。この文章に仕掛けられた“叙述トリック”の切れ味の鋭さと漂う哀感は、それを紹介する北村さんの紹介の仕方の見事さと相乗効果になって強烈に胸に刻まれる。
去年新刊で出た『ミステリ十二か月』*3中央公論新社、→2004/10/28条)のときもそうだったが、今度もまた、本書で紹介された本(作品)の多くを読みたくなった。宮部みゆき『幻色江戸ごよみ』、横溝正史「蜃気楼島の情熱」、鮎川哲也「五つの時計」、都筑道夫「三重露出」、ジャン=ジャック・フィシュテル『私家版』などなど。
第十一回「見巧者の目」では、向井敏『机上の一群』中で紹介されている瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』の紹介のされ方を読み、『机上の一群』も『夜明けの睡魔』も読みたくなった。いずれも未読のまま積ん読になっているので、読もうと思えばいつでも読める。
瀬戸川さんは北村さんの大学のサークルでの先輩にあたる。瀬戸川さんが、「〝幻の怪作〟と化してもらいたい」と書いた本を北村さんは所有しているという。それに続けて、
多分、ずっと処分しないだろう。それについて語ってくれた時の、瀬戸川さんの声が、姿が忘れられないからである。(150頁)
と書く。本を処分しない(できない)理由として、こんなものがあったのか。これも少し工夫すれば「謎」となりうるのではないか。ちなみにこの文章はまだ瀬戸川さんが存命のときに書かれ、文庫化される間に瀬戸川さんが亡くなった。文庫版での追記は、北村さんによる瀬戸川さんに対する熱いオマージュである。そんなことまで含め、次は『夜明けの睡魔』*4(創元ライブラリ)かな。