役割として必然なもの

海辺のカフカ

この週末、大学の恩師がめでたく定年を迎え開催された最終講義と記念パーティに出席するため、仙台に行った。いま私が口に糊している仕事の大先輩で、大学に入ってまもなく、学問の入り口のところで懇切な手ほどきを受けた。まだお若いと思っていた先生が定年か…と深い感慨をおぼえる。もっともあれから20年近い時間が過ぎたわけで、私も数年後には不惑を迎えてしまうほど馬齢を重ねたのだから、先生が定年を迎えるのも当然なのである。
仙台行をひかえた前々日、電車本を読み終えた。さて次に読む本を何にしようかと考えたとき、この週末一人で遠出するという移動時間も射程に含め、せっかくの機会なので長めの本を読もうとひらめいた。前日から電車本として読みはじめ、そのまま旅先に持っていこうというわけだ。ちょっぴり「中期的視野」に立った本選びである。
そこで選んだのは、買ったばかりの村上春樹海辺のカフカ*1・下*2新潮文庫)。このたびの新潮文庫新刊中の目玉として、どの書店でも別扱いで大々的に売り出されている。私もふとした気まぐれ心から買ってみることにしたのだった。村上春樹さんの本を「買う」のは久しぶりのこと。
いま「買う」と鉤括弧付きで表現したのは、買ったことがあっても、たぶん村上作品を読んだことがないはずだからだ。たぶん、という実に曖昧な記憶だが、いま確実に憶えているのは、新潮文庫版『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』上下を古本で、講談社英語文庫版『ノルウェイの森』を新刊で購ったこと。
前者はともかく、なぜわざわざ英語版『ノルウェイの森』を買ったかといえば、当時英語を勉強する必要があって、貧乏性の私は読書との一石二鳥を狙ったのだった。英語版『ノルウェイの森』で英語力を身につけ(というより、英語に対するカンを取り戻し)、かつ話題作を読もうというさもしい判断である。だから、おそらく『ノルウェイの森』の原書(つまり日本語版)も古本で入手したと思うのだが、あいにくこちらはさっぱり憶えていない。
これら買った記憶のある村上作品を読んだ記憶がないのである。手もとにももうない。未読のまま処分したのだろう。だから、『海辺のカフカ』は、遅まきながら初めて読む村上春樹作品ということになるのかもしれない。
さて『海辺のカフカ』、とても面白かった。電車に乗っている時間を忘れ、途中電車がとまった駅に気づかぬほど、熱中して読むことができた。これから『海辺のカフカ』を目にすると、この本を読んだときに置かれていた状況、仙台・山形(今回は実家に泊まった)の春三月にして真冬を思わせるような白銀の風景がよみがえってくるかもしれないけれど、実のところ読書に熱中しすぎて、読書につきものの時間・空間の記憶が欠落している。しっかり憶えているのは、文庫本の右側、つまり読み終えた側がだんだん増えてゆき、左側が薄くなっていったということのみ。ページの遷移についての記憶が、かろうじてその本を読んだという時間を証明している。
本書を読んで、つくづく、小説には謎が必要であると思った。読者をつかんで離さない謎、それもその謎が解決不可能に思えるほど不可解で、でも最後にはきちんと謎が解き明かされるような仕掛けが、すぐれた小説には欠かせない。こんなふうに一般化してしまって悪ければ、少なくとも私は、こうした「謎仕掛け」の小説が大好きだし、だからミステリが好きなのだろう。
もちろん『海辺のカフカ』はミステリではないが、不可解な謎が前半でいくつも散りばめられ、その後展開する長大な物語に対する読者の興味を失わせない。息つくひまなく読み進ませる。東京に戻って、まだ下巻の三分の一程度までしか進んでいなかったのだが、こらえかねて自宅で延々最後まで読み通した。この作品にはそうさせるだけの力がある。
謎がどんな性質のものであり、また、物語のモチーフがどのようなものであるか。時間の謎、記憶の謎、ひいては人間の謎、宇宙の謎、エディプス的主題、精神分析学的モデル、たぶん単行本刊行後これまでの間にいろいろ言われているに違いない。私がそこに陳腐な感想を重ねる必要はないだろう。そんなことより、たとえばこんな一節に惹かれる。

チェーホフが言いたいのはこういうことだ。必然性というのは、自立した概念なんだ。それはロジックやモラルや意味性とはべつの成り立ちをしたものだ。あくまで役割としての機能が集約されたものだ。役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。役割として必然なものは、そこに存在するべきだ。それがドラマツルギーだ。ロジックやモラルや意味性はそのもの自体にではなく、関連性の中に生ずる。チェーホフドラマツルギーというものを理解しておった」(下巻、128頁)
作品中とてもユニークで謎を秘めたキャラクターである「カーネル・サンダース」から発せられた言葉である。物語のなかでのこの文章の脈絡とは無関係に、ここで説かれるドラマツルギーについての考え方は、そのまま物語全体に跳ね返る。つまり、この物語に登場する人物から彼らのちょっとした立ち居振る舞いの描写に至るまで、また小道具の存在も含め、一切合切物語のなかで「役割として必然なもの」であるということ。ことごとくが登場人物の未来、物語の未来、謎の核心、そうしたものへの伏線となって巧妙に張りめぐらされている。この点、読みながら一字一句も読み落とせないと感じつつ読み進めた。
以下、印象に残った文章を目につくまま引用する。
「田村カフカくん、僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先に進めないというポイントがある。そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。僕らはそんなふうに生きているんだ」(上巻、343頁)
「そりゃいい。だからね、俺が言いたいのは、つまり相手がどんなものであれ、人がこうして生きている限り、まわりにあるすべてのものとのあいだに自然に意味が生まれるということだ。いちばん大事なのはそれが自然かどうかっていうことなんだ。頭がいいとか悪いとかそういうことじゃないんだ。それを自分の目を使って見るか見ないか、それだけのことだよ」(上巻、400頁)
本書のなかでもっとも印象深い登場人物は、ナカタさんである。子供の頃不思議な事件に巻き込まれ、それまでの記憶をすっかり失い、文字の読み書きすらできなくなったまま60歳を過ぎた男。でも猫と会話できるという能力があり、出会った人びとの人生観を変えるほどの強烈な個性を放つ。彼の話し方にはクセがある。この『海辺のカフカ』は英訳され海外でも高い評価を得ているとのことだが、ナカタさんの話し方は、英語にするとどんなふうに表現されるのか。とても関心がある。
そのナカタさんの変事を目の当たりにし、同行していた星野青年が漏らした感慨。
ナカタさんの人生がいったい何だったのか、そこにどんな意味があったのか、それはわからない。でもそんなことを言い出せば、誰の人生にだってそんなにはっきりとした意味があるわけじゃないだろう。人間にとってほんとうに大事なのは、ほんとうに重みを持つのは、きっと死に方のほうなんだな、と青年は考えた。死に方に比べたら、生き方なんてたいしたことじゃないのかもしれない。とはいえやはり、人の死に方を決めるのは人の生き方であるはずだ。(下巻、399頁)
この本を読んでいると、ナカタさんが記憶や読み書き能力など一切をリセットされてからすごした何十年という悠久の時間が、物語中のキーとなる「入り口の石」のようにずっしりと重く心にのしかかってくる。
もちろんこのナカタさんだけでなく、前述したカーネル・サンダースや、星野青年、また言うまでもなく主人公の田村カフカ少年、彼が高松で世話になる佐伯さんや大島さん、さくらさん、さらにはジョニー・ウォーカーという名前の謎の猫捕獲人。皆のキャラクターが素晴らしく、すべてが「役割として必然なもの」として物語のなかで躍動している。
年末、この一年で読んだなかで印象深い本をあげるとき、この『海辺のカフカ』は絶対に落とせない一冊となるに違いない。