女性作家と夕刊フジ

ラーメン煮えたもご存じない

地方に住んでいると、地元紙(私の郷里でいえば山形新聞)を購読しないかぎり夕刊という媒体になじみがない。東京に住んでわかったことだが、朝日・読売といった中央紙の場合夕刊の記事・情報は、按配されて翌日の朝刊に掲載される。
ましてや夕刊フジのような夕刊専門紙が目に触れる機会は稀である。地方に住んでいた30年の間、電車で学校や職場に通うということがほとんどなかったため、駅売りの新聞を買うという経験がまったくない。だから、夕刊フジが山形や仙台で駅売りされていたのかどうかわからない。
もっとも夕刊フジにまったく無縁だったわけでもない。仙台時代、ひところ競馬に熱中したことがあった。毎週のように競馬新聞を検討していた。愛読(用)していたのは競馬エイトで、週明けにはいつも『週刊Gallop』を買って週末に備えていたから、フジ系の媒体で競馬の世界に触れていたのである。
ある日、競馬エイトやサンスポが売り切れだったか、その代わり同じフジ系で類似の馬柱(競馬新聞特有のあの縦長の表)を載せている夕刊フジをコンビニで購入したことがある。このときはあくまで競馬の情報ほしさで夕刊フジを買ったにすぎないから、夕刊フジを購入したというより、「馬柱を購入した」という表現が真実に近い。
このように、夕刊フジ、ひいては夕刊専門紙へのなじみがいちじるしく薄い私にしてみれば、夕刊紙イコール「仕事帰りのサラリーマンのための新聞」と単純に考えている。この場合のサラリーマンは「おじさん」に置き換え可能だ。若い人びとを排除するわけではないけれど、共通するのは「男性」、この一点である。したがって内容はこの層の人にウケる、趣味系、ゴシップ系、エロ系がメインとなる。
これまで集め、読んできた夕刊フジ連載エッセイは、梶山季之山口瞳吉行淳之介筒井康隆井上ひさしというように、いまの目で眺めるときわめて上質、贅沢な執筆陣である。とはいえ、書かれたのは彼らが40代の働き盛りという年齢でもあり、内容は読者層(サラリーマン男性)にウケる、上記のような話柄が多い。実際作家たちもそんな読者層を念頭において話題を選んでいたのではあるまいか。
と、ここまでかなりの字数を費やしてきて何が言いたいかと言えば、こういうわけだから、女性が夕刊フジ連載エッセイの執筆者になるというのは、珍しいのかもしれないということだ。別に男女差別をして言うのではない。書く女性作家側に、夕刊フジに連載しても十分に受け入れられる素質が、言葉をかえれば、サラリーマン男性にもウケるような適性が必要なのである。
たとえば山藤章二さんが挿絵を担当した執筆者のなかに、中島梓林真理子二人の女性がまじっている。山藤さんは、これまで男性とばかり組んできたところに初めて女性の中島さんと組んだときのことを回想して、中島梓は男らしい女流作家である」と書いているのは(『アタクシ絵日記 忘月忘日2』文春文庫、53頁)、男性側としての率直な感想であると思う。いまはともかく、当時(1987年)の林真理子さんだって、中島さん同様の見方をされていたのではなかったか。
その意味では、山藤さんと組んだわけではないが、田辺聖子さんもその一人だろう。ああ、ようやくここまでたどりついた。田辺さんの夕刊フジ連載エッセイをまとめた『ラーメン煮えたもご存じない』*1新潮文庫)を読み終えたのだった。
私は小説にせよエッセイにせよ、女性作家の作品をあまり読まない。川上弘美さんは例外に属していて、これに田辺聖子さんも加えてよい。言い方が適当でないかもしれないけれど、田辺さんのエッセイ(小説は未読)は作品の雰囲気が感覚的でなく、実証的というか、論理的というか、ブッキッシュな点、まるで男性作家の作品を読んでいるかのような印象を持ったのであった。たとえば『花衣ぬぐやまつわる……―わが愛しの杉田久女』集英社文庫、旧読前読後2003/7/22条)などはその典型。
『ラーメン煮えたもご存じない』もまた物言いがさっぱりとして気持ちがよく、女性としての自分の立場を踏まえての発言がもちろん多いにもかかわらず、そこから性差を感じない。
ただ、女性という性を強く意識した発言のなかで、ハッとさせられた箇所があった。「言葉とくどき」という一文のなかで田辺さんは、上方女として、絶えて触れる機会の少ない東北弁に弱いと書く。「日本の女は毛唐に弱」く、これは「英語やフランス語でくどかれると、女のロマンチシズムのおかげで、効果が増幅されるから」だと言う。

ついでに想像力ゆたかな女ならば、男のボソボソした東北弁の向うに、雪を頂く高い峰々や、雪の夜道のかまくら(カレンダーの写真をみての想像である)、吹雪の山や怒濤逆まく日本海(流行歌からの空想である)なんかを思い浮べ、うっとりする。(285頁)
半分お世辞が入っているにしても、東北男たる私としては、なんだそうだったの、と、なかば人生に悔いを残したような気分にさせられてしまう。東北人はおしなべて関西弁(を話す関西人)が苦手だという認識があるが、これはあくまで押しの強い、テレビで流される(誤った?)関西弁の人間に対してであり、女性の口からやわらかな京都弁が話されると、心がとろけてしまう感じになるからだ。
京都の町を歩いていて、女性のグループなどとすれ違う一瞬、私は全神経を耳に集中させる。彼女たちが交わしている関西弁の会話を聞きたいから。何だかいいなあと思ってしまうのだ。もっと早くから上方女が東北男に弱いという説を知っていれば…と地団駄を踏んでいる。