素敵な日本語使い

河岸忘日抄

堀江敏幸さんの待望の最新長篇『河岸忘日抄』*1(新潮社)が出た。発売日は2月25日とあったが、ちょうど前日の24日に大きな書店へ立ち寄る機会があったので、というより、大きな書店のある盛り場に出る機会があったので、わざわざそこの書店に立ち寄って、無事入手した。翌日まで我慢できなかったのだ。当然帰宅後読書中の本をさしおいて読み出した。
堀江作品の特徴のひとつに、緩急のつけかた、言いかえれば文章の息継ぎの変化があるというのが持論である。これは『河岸忘日抄』が出るまで唯一の長篇だった『いつか王子駅で』にせよ、芥川賞受賞作「熊の敷石」のような短篇にせよ、共通してうかがえる(→2004/2/14条)。
ところが今回の『河岸忘日抄』にはその妙味が薄い。さながら河岸に繋留された船を借家がわりに借りて暮らす主人公の生活のように、物語のテンポは振幅が極小に抑えられ、ひたすら思索的に、内向的に、ゆったりと展開してゆく。読む立場としても、最後まで一気に読み終えようと急きたてるようなテンポについぞ出会わないため、たっぷりと時間をかけて味読、堪能したという感じだ。
ひとつのパラグラフがまとまりとなって、パラグラフとパラグラフの間にアスタリスク(*)が打たれる。長篇でありながら断章の集積のような体裁にも見える。実際主人公の思索の断片、挿話のつらなりがひとつのパラグラフとなってアスタリスクでつなげられるという部分もあるが、アスタリスクを外せば隣り合ったパラグラフの間に物語としての流れが生じる部分もある。あたかも物語のなかで主人公が考えを及ぼす運河の閘門のように、堀江さんはパラグラフの間に閘門としてのアスタリスクを設け、わざと物語の流れを堰き止めたような気がしないでもない。
主人公は生活の新規まき直しのため、身辺を整理して十数年ぶりに異国に渡った男。あれこれと選択決断を迫られる社会から身を引き剥がし、ためらうこと、待機すること、逡巡することに身を委ねる。

ためらう行為のなかに決断の不在を見るのは、しかしあまりにも浅はかだ、といまの彼は思うのだった。「あたりまえの感覚」の鍛え方に思いを馳せ、逡巡を持続と言い換えてその場その場をしのいできたのは事実だが、その場しのぎがひとつの決断でなくてなんだろうか? ためらいとは、二者択一、三者択一を甘んじて受け入れ、なお身体に深く残留する徒労感のようなものだ。(178頁)
彼はある河岸(セーヌ川のようだが、私の知識では物語の叙述からこれを特定することはできなかった)に繋留され、居住用に提供されている船を借りて生活する。物語は、この船のなかで主に展開する。彼の読書生活、音楽、料理。外に出るのは、生活のための買い出しに市場に出かけたり、何やら重い病気にかかっているらしい大家の老人に見舞いがてら彼の話を聞きに出かけたりするときのみ。
直接彼と交流するのは、この大家をはじめ、彼のもとにときどき郵便物を届ける配達夫の男、同じ船上生活者の少女、いまだ渡ったことのない対岸で、ジャンベという西アフリカの打楽器を打ち鳴らす男くらい。本国日本には、ファクスや手紙で近況を報告しあう年長の友人枕木さんがいる。枕木さんは元探偵業でいまは某企業のPR誌を編集しているという男で、ときどき主人公に送ってくる通信文には、主人公の生き方に関して重みのあるアドバイスが記される。固有名詞の名前を持っているのが、このいっぷう変わった苗字(この苗字がもたらした挿話も用意されている)を持つ枕木さんのみであることに、著者は何かしらの意味を込めているに違いないが、それ以上の考えが及ばない。
それにしても不思議な小説だ。どう感想を書いたらいいのかわからない。ともかくもこうした色合いの小説は、これまで存在しただろうか。
モノに対するフェティッシュな関心については、従来の堀江作品同様目立って面白い。冒頭のファクス購入のシーン、さらに、ガラパゴスの珈琲、「樽」にまつわる家具とクロフツの古典的ミステリ*2、「卵と私」と名づけられた産直の卵パックから、オムレツの作り方に関する講義、料理といえば、マルメロやスグリのジャムを塗ったクレープの存在も強い印象を残す。
堀江さんの書く文章は、これまで私が触れてきた日本語の文章のなかでも飛び抜けて美しい。和語のやわらかさと漢語の堅さ、翻訳調の一見生硬に感じられる言い回しが絶妙に組み合わされ、妙なる響きを醸しだす。漢字にせずあえてひらがなに開くことの多い文章のつらなりは、堀江さんが好む精興社の写植文字のフォルムを存分に活かしきり、版面が美しい。版面から、物語の静謐さが雰囲気として漂ってくるのである。
こんな流麗な日本語をあやつる堀江さんが同世代にいることの誇り。どんな日本語を読んだらこんな素敵な日本語使いになれるのか、羨ましくて仕方がない。

*1:ISBN:4104471038

*2:奇しくもこの一月にハヤカワ文庫から『樽』の新訳が刊行された。