寂れ続けることの価値

文学的パリガイド

何度か書いているが、私は海外旅行経験がない。たぶん今後も行くことはないだろう。「ロバは旅をしても馬になって帰ってくるわけでない」(山本夏彦)。妻からは陰に陽に何度かせっつかれているものの、その都度「ファーストクラスならば」と返事をする。自分たちがファーストクラスで海外旅行に行けるはずがないとわかっているからだ。これには冗談でなく実際的な理由もある。血のめぐりの(たぶん)悪い私には、エコノミークラス症候群が待ちかまえていることがわかりきっているのである。
万が一行くようなことがあるとすれば、上の名言を吐いた山本さんも一時滞在したパリか、中欧・東欧の都市(ウィーン・プラハブラチスラバブダペスト)を選ぶ。ドイツのバイエルン地方もいいかな。
でも、鹿島茂さんの新著『文学的パリガイド』*1NHK出版)を読んで、旅行者としてパリを訪れても、たぶんパリの魅力の何分の一も味わうことができないだろうと感じた。パリは「住む」という感覚を味わえる程度の長期滞在を前提にしないと、その歴史も、文化も、雰囲気すら身につかないのではあるまいか。
ルーブル美術館でさえ全部を見て回ろうとすると一日では足りないと言われているのである。パリには至る所に名所旧跡がある。どうせ行くならとことんまで回ってみたい。むろん名所旧跡めぐりだけでなく、セーヌ川沿いのブキニスト(古本屋)を流し見たり、カフェに座ってパリの街を眺めるなんてこともしたい。だから私の場合、旅行者という立場では駄目なのだ。
フランス語ができるはずもなく、この夢は画餅に終わるだろう。行かぬなら、せめて本の世界でパリに遊ぶしかない。鹿島さんの本はうってつけの本だった。「一スポット一文学者」の原則を立て、合計24ヶ所の名所旧跡を、その場所を描いた文学作品を引用しながら紹介してゆく。
パリは古い都であり、東京と違い石の都であるから、オスマンのパリ改造があったとはいえ、古い建造物が至る所に残っている。読んでいて面白いなあと思ったのは、これら建造物が外側はそのままに、いろいろな使われ方をして現在に至っているということだ。貴族の邸宅がいまでは美術館・博物館になったり、官公庁になったり、外国の公使館になったりする。そんな「地霊」的な場所の変遷にすこぶる関心をそそられる。
そうした地霊的な意味合いで興味深い場所は、ナポレオンの墓所があるアンヴァリッド(廃兵院)や、かつて貴族の邸宅が立ち並んだ高級住宅地で現在は一般人原則立ち入り禁止の官公庁街となっているフォーブル・サン=ジェルマンだった。
加えて「ベルサイユのばら」以来気になって仕方がない場所に、パレ=ロワイヤルがある。ブルボン家の一族オルレアン公の居城だが、その居城の一部、回廊をショッピングモールに改造して庶民に開放したという事実にドキドキさせられるのだ。しかも今でもこれが残っているというからたまらない。日本で言えば、皇居や東宮御所の一部が開放されアメ横化(あるいは歌舞伎町化?)しているというイメージでいいのだろうか。
鹿島さんによれば、「飲む、打つ、買う」の欲望をすべて満たせる「悪の殿堂」として栄えたパレ=ロワイヤルは、19世紀も半ばになると娼婦や賭博場が追放されることで閑古鳥が鳴くありさままで失墜したという。「以後、客足は二度と戻ることなく、パレ=ロワイヤルは百六十年以上にわたって寂れ続けている」(65頁)。
この160年以上にわたって寂れ続けているという表現がすごい。ほかにも、パサージュを紹介した一篇にはこんな一節がある。

今日、パサージュ・ショワズールを訪れてみると、その惨めな感じ、時に忘れられたような寂れ方はセリーヌ一家が骨董店を営んでいた百年前とほとんど変わっていない。(145頁)
18世紀の中ごろまで王侯貴族の住宅地として繁栄したマレ地区は、今でこそ高級ブティック街として観光客に人気の地区になっているものの、それまでは「その衰退は二百五十年以上も続いて、繁栄が戻ることは永遠にないと思われた」(238頁)という。
たんに歴史的建造物が数百年前からあるということ自体珍しいことではない。パリという都市の魅力は、百年、二百年という単位で「寂れ続け」、そうした“昔と変わらぬ寂れ方”がいまも味わえる場所があちこちにあるという点にあるのではないか。鹿島さんもそんな百年寂れ続けた場所に愛着を持っているような気がしてならない。