パリへのあこがれ

ミッドナイト・イン・パリ

ミッドナイト・イン・パリ」(Midnight in Paris、2011年)
監督・脚本ウディ・アレン

小林信彦さんの本を読んでいると、クリント・イーストウッドウディ・アレンが高く評価されていて(最新刊『非常事態の中の愉しみ』*1)、洋画を観ないわたしでも、否応なく頭に刻まれることになる。アカデミー賞ゴールデングローブ賞最優秀脚本賞という看板をひっさげ、ウディ・アレン最大のヒット作という触れ込みで、テレビで紹介されていたのを観て、とにかく観たいという気持ちにさせられた。洋画なのに、珍しいことである。
惹かれたのにはいくつか理由がある。いまあげた小林さんの影響の沈殿、主人公が1920年代にタイムスリップするという仕掛け、それがパリであるということ、タイムスリップした先には、ヘミングウェイフィッツジェラルドピカソといった著名人が登場するということ。でさっそく公開後最初の日曜日に観に行ったわけである。
映画館の丸の内ピカデリー有楽町マリオンにある。マリオンにある映画館では、かつて「スターウォーズ エピソード1」を観に来たおぼえがあるが、これはお隣の東宝だったか。このときはまだ東京に来たばかりで、席が全席指定だったのに驚いたものだった。いまやシネコンではあたりまえのようになっている。
ウディ・アレン作品を観るのははじめてである。ウディ・アレンという監督の経歴もあまり知らない(小林さんの本により知っていそうなものだがおぼえていない)。だから、この映画に対して、「昔は良かった」風のノスタルジーにひたることを皮肉っているという素直な批判的見方をしていいものなのか、そこからもう一ひねり裏にあると考えるべきなのかわからない。ウディ・アレンはパリ好きだと聞いている。だからこの作品はパリ(とくに「雨のパリ」)を撮ることに主眼を置いていると解釈していいのかもわからない。ひとつ身に沁みたのは、「現在を生きることのほろ苦さ」ということだろうか。
少なくともパリが主役格であることは間違いない。たとえタイムスリップしたとしても、未来の人間が過去のパリに溶け込めるほど、パリの町は歴史があって懐が深いのだということがわかる。これが日本や、たとえば日本の都市(京都など)では通用しないし、ましてや「むかしの京都(あるいは江戸)に暮らしたい」と思うほどの追慕を感じさせることはない。
タイムスリップのためのスイッチもさりげない。いかにもいまのパリにああいうクラシックなプジョーの乗合自動車がくねった石畳の坂道を登ってきそうだし、馬車も走っていそうだ。出てくる人たちは有名人ばかりで笑えるし、タイムスリップにもさらにもう一つの仕掛けがほどこされているからたまらない。パリの町はなぜああも美しいのだろう。海外に行くまいと心に決めているわたしでも、パリへと誘われたら断れないかもしれない。
出てくる女性たちがこれまたキュートで美しいのだ。主人公の悩める作家ギル・ペンダー(オーウェン・ウィルソン)の婚約者イネズ(レイチェル・マクアダムス)、1920年代のパリで出会うピカソの愛人アドリアナ(マリオン・コティヤール)、ロダンの考える人のガイド(カーラ・ブルーニ)、そして古道具屋で働く女の子に至るまで、言い方は悪いが誰でも綺麗に見えてしまう。パリという「恋する町」に住めば、こんなふうに気安く女の子と恋の遊びができるのだと錯覚を起こしてしまうほど。もっともこれはパリのせいというよりは、ウディ・アレンの演出によるのかもしれないが。
帰宅後鹿島茂さんの『パリのパサージュ』はじめパリに関する本や、鹿島さんが監訳者であるアルフレッド・フィエロ『普及版パリ歴史事典』を引っぱりだし、しばし活字でのパリ散歩を愉しんだことはいうまでもない。