インスタントコーヒーの飲みすぎは

燃焼のための習作

堀江敏幸さんの新作『燃焼のための習作』*1講談社)を読み終えた。
大好きな長篇『河岸忘日抄』と対になる作品らしいということで、初出掲載誌である『群像』2012年1月号を買ってまで読もうとしたのだが、途中で頓挫したまま単行本の発売を迎えてしまった。三分の二ほどまで読み進めていた。
あらたに購入した単行本で読んでみると、雑誌で読んでいたのとは違ってすいすい読み進めることができたのは不思議だ。もちろん三分の二まで既読であるということは大きいに違いない。ただ、もっと違う理由もあると思われる。やはりこの小説の内容に二段組という窮屈な体裁はあわないように見受けられるのだ。堀江さんの本でおなじみの精興社の字体も単行本の長所だろう。もっともこれらは『群像』が悪いわけではないのだから仕方がない。
では“二段組みが似合う本”なんてあるのだろうか、などと別のところに考えがおよぶ。浩瀚な評伝、面白くてどんどん読んでしまうのだけれど、まだまだ残りはたっぷりあると嬉しい思いにさせてくれる本。最近読んだなかでは、長谷川郁夫『堀口大學 詩は一生の長い道』*2河出書房新社)などが該当するだろうか。またたとえば、二段組みで字がぎっしりある版面が内容のむずかしさをストレートに示しているような本。新潮社から出ているミシェル・フーコーの函入りの本(『言葉と物』など)がそんな感じだ。
『燃焼のための習作』を読んだせいか、自分の思考もあっちにいったりこっちにいったり、脱線を愉しむようになってしまった。帯には「終らない謎解き、溶け合う会話、密室の、探偵と助手と依頼人。」とあるが、後半に惹かれて謎解きミステリと勘違いする人がいるかもしれない。本書の妙味は惹句の前半部分にあるはずだ。脱線したと思ったらいつの間にか戻り、また今度は別の話題に飛んでゆく。連なる会話があらぬ方向に流れてゆく。そこを愉しめばいい。
だから読んでいて吉田健一のある種の小説を想起してしまった。とりとめのない会話が途切れなくつづき、そのなかに哲学的だったり詩的だったりする鋭い箴言が隠されている。吉田健一のばあい、登場人物はお酒を酌み交わしながら話に花を咲かせている。対する堀江さんの『燃焼のための習作』のばあい、主人公の枕木さんはネスカフェのインスタントコーヒーを何杯も飲みつづける。途中、この小説のなかで枕木さんは何杯のコーヒーを飲んだのか数えたいという誘惑にかられてしまったほど。誰か数えている読者はいないものか。
枕木さんのインスタントコーヒー好きを反映してカバーは、こぼれたコーヒーの染みがマグカップの底の輪郭として残されたデザインが、白い紙にほどこされている。まるで自分がその上にうっかりコーヒーの入ったカップを置いてしまったかのように(装幀は帆足英里子さん)。見返し紙もコーヒー色なのが洒落ているし、これに対して花切れがミディアム・ブルー(という名称が付けられていたプラモデル塗料の色風)であるのも素敵だ。
堀江さんの本は装幀がいいので、読むときはカバーをあえて外すことが多い。まだ全部読み終えていない書評集『振り子で言葉を探るように』*3毎日新聞社)もそう。ところがこの『燃焼のための習作』は、最初からコーヒーの染みで汚れた感じに造られているからか、カバーをつけたまま手にとって読み、そのまま鞄に放り込むというぞんざいな扱いを許してくれるようなところがあって、ついそれに甘えてしまった。
最後に、最も印象に残った一節。

出会いであれ縁であれ、それは出会いであり縁であるからこそ起点のないものですよ、人と人がある場所で会うことには、たとえそれが仕事であったとしても明確な起点はないと思いますね、誰かひとりでも連鎖から外れていたら、一分でも歩く速度がちがっていたら交錯しなかった、そういうことばかり日常では起こる、…(111頁)