畑違いに惹かれる心理

小説に書けなかった自伝

今年は新田次郎生誕100年だという。新田次郎は、明治45年(大正元=1912)6月6日、長野県上諏訪町に生まれた。
書店に新潮文庫の新刊が並んでおり、まず目に入ったのは、『小説に書けなかった自伝』*1だった。手に取ってパラパラとめくり、少し心が動いたものの元に戻した。そのとき隣に、別の作品『つぶやき岩の秘密*2があるのに気づいた。今度はこちらを手に取ったところ、少年冒険小説とある。わたしは、すでにひとつのジャンルをきわめた作家が、違うジャンルに挑戦した作品になぜか惹かれてしまう。山本周五郎の少年小説やミステリ(『寝ぼけ課長』)、都筑道夫の少年小説、池波正太郎の現代小説(『娼婦の眼』)などがその例だ。
新田次郎も例外ではない。たぶんわたしが読んだ新田作品は、NHK大河ドラマになった「武田信玄」の原作のみではないか。大ヒットした「独眼竜政宗」の翌年の作品、こちらも負けず人気になったはずだ。そういう程度のつきあいしかない新田作品だが、いま唯一持っていたのが、光文社文庫に入っている『空を翔ける影』*3である。古本で見つけ、帯に「海外旅行を題材にした異色の推理ロマン」とあるので買わずにいられなかったのである。
だから『つぶやき岩の秘密』は購入を即決した。『つぶやき岩の秘密』を買ったのだから、これに気づくきっかけをつくってくれた『小説に書けなかった自伝』も買わないわけにはゆかない。一緒に購う。そして帰宅後読み始めたのは後者『小説に書けなかった自伝』からだった。
新田次郎は妻である藤原ていの『流れる星は生きている』ベストセラーに刺激され、小説を書き出した。本業は気象庁職員。直木賞を受賞してからもしばらく二足のわらじを履いて活躍し、測器課長として富士山頂レーダー設置という大プロジェクトを成功させたのを機に辞職して作家一本で立つことにする。
この『小説に書けなかった自伝』は、創作裏話、創作方法の大胆な披露、本業と小説家という二重生活の苦労譚としてたいへん面白い本だった。本業が別にあるひとりの作家が、余暇を利用し苦労しながら小説を書き上げ、成功にこぎつけるサクセスストーリーとしても、ぐいぐいと読ませる魅力をもっている。
新田さんの活躍していたちょうどその頃、吉田健一の『大衆文学時評』があって、たしか新田次郎吉田健一のご贔屓作家のひとりではなかったかと思っていたら、果たしてそのことに言及があった。
ある日新田さんは文藝春秋社内のバーで吉田健一と出会った。「その節はいろいろ暖かいご批評をいただき有難うございました」とお礼を言ったところ、吉田健一はこう返したという。

月に一度のあの仕事は骨が折れました。まず目次を見て、その中に、AさんやBさんやCさんの名があるとほっとしました。(118頁)
AさんBさんCさんのなかの一人が新田さんだったという。じいんと胸が熱くなる素敵なエピソードである。残りの名前もいろいろ想像がつく。『小説に書けなかった自伝』を読み終えたあと、『大衆文学時評』が収められている『吉田健一著作集』第15巻を取り出してめくってみる。水上勉多岐川恭佐野洋司馬遼太郎戸板康二池波正太郎鮎川哲也…。この吉田健一による批評が、彼ら作家たちにとってどれだけの励みになったか。
このなかに、『週刊新潮』にロアルド・ダール調の(おそらく「奇妙な味」的な)短篇の連載を依頼され、書いた短篇を何本も没にされるという編集長斎藤十一の厳しさに怖じ気づきながら連載を終えたというエピソードがある。これはのちに『黒い顔の男』という短篇集にまとめられたという。
「今になってみると懐かしいが、この本をもう一度読んでみたいとは思わない。恐怖の三カ月間のことを思い出したくないからだ」「苦労さえしたら良い作品が出来るものではないことを如実に示したものである」と苦々しげに述懐しているが、ご本人の自己評価とは関係なく、新田次郎斎藤十一に苦しめられたミステリ(奇妙な味)短篇集というだけで、わたしの本好き魂に火がついたことはいうまでもない。『小説に書けなかった自伝』を読み終えないうちに、ネット古書店に注文してしまった。
いまは『黒い顔の男』が家に届くまでの楽しみとして、『つぶやき岩の秘密』に取りかかっている。