再読の連鎖

アンリ・ルソー 楽園の謎

原田マハさんの長篇小説『楽園のカンヴァス』*1(新潮社)が、画家アンリ・ルソーをめぐるミステリであるということを知ったとき、頭に浮かんだのは、仏文学者岡谷公二さんによるルソーの評伝アンリ・ルソー 楽園の謎』*2(中公文庫)のことだった。
手もとにある中公文庫版の奥付を見ると、1993年8月10日発行とある。この時期ワープロ専用機を使って記していた日記を検索すると、ちょうどその奥付の日にこの本を買っていた。一緒に買ったのは、『澁澤龍彦全集』3(河出書房新社)、『吉田健一集成』2(新潮社)、『新潮日本文学アルバム 澁澤龍彦』(新潮社)とある。たぶん当時はいま以上に書籍代に費やす額が高かった。奨学金とアルバイト代で懐はけっこう潤っていたのだ。
岡谷さんの本はすぐ読んだように思うが、この数日後の記事を最後に日記をつけることをやめてしまったので、どんな感想を抱いたのか、すっかり忘れている。いまから約19年前、おそらくアンリ・ルソーの絵など観たこともなかったはずで、岡谷公二さんの本ということで購い、読んだのだろう。
わたしが岡谷公二という名前を知ったのは、1990年頃筑摩書房から出た翻訳シリーズ『澁澤龍彦文学館』のうちの「独身者の箱」だ。レーモン・ルーセルロクス・ソルス」などの翻訳者としてである。澁澤龍彦に連なる人であればとにかく芋づる式に関心を持って本を購い、むさぼり読んでいた頃であった。その岡谷さんが、澁澤も関心を寄せていた「郵便配達夫シュヴァル」についての本を出したので飛びつくように購い、興奮しながら読んだ。作品社から1992年9月に出た『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』である。こちらはのち河出文庫に入った*3。書棚を探してみると、文庫版は見つかったものの単行本は見当たらない。どこか奥にあるのか、文庫が出たから処分してしまったのか。
アンリ・ルソー 楽園の謎』は、その岡谷さんによる評伝ということで、前著である郵便配達夫シュヴァルとおなじ系譜に連なる人物としてアンリ・ルソーを認識し、ルソーの何者かをよく知らないながらも購ったのだろう。どんな感想を抱いたのかは忘れているが、面白く読んだ記憶のみが残っていたから不思議だ。その後たびたびの転居を経ても処分せず手もとにあるということと、なぜか書棚のなかでこの本のある位置を憶えていたというのがそれを証明している。本書初読後ルソー作品を実見する機会を得、自分の好きな傾向の絵であるということで、この本を再読してみようと幾度となく思ったからこそ、忘れがちな本の場所を奇跡的に憶えていたものとおぼしい。
だから、原田さんの小説を読み終えたとき、巻末の参考文献の先頭にこの本があげられていたのを見て、「やっぱり」と嬉しかったし、原田さんの小説の印象が薄れないうち、今度こそ再読しようと志したのであった。
原田さんの作品中、重要な役割を果たす人物であり、またポイントとなる作品「夢」のモデルとされるヤドヴィガという女性は、岡谷さんの本によれば、誰のことなのかわかっていないのだという。これには驚いた。つまり原田さんは、ヤドヴィガなる女性がまったくわかっていないというところにこの長篇の謎解きの核心を据え、そこから出発したのだろう。原田さんの小説を読むと、その小説どおりのモデルとなった女性が実在し、すでに周知のこととなっているものだと錯覚してしまう。それほどこの長篇における彼女の存在感は大きい。
また、これも原田作品で重要な場面となっているピカソのアトリエにおける「ルソーの夜会」について、この夜会に出席していた数名の人間がのちに証言を残しているのだということも面白かった。このときの証言が大きな食い違いを見せているというあたり、『記憶の歴史学』の著者として、強い関心をもたないはずがない。食い違う証言の解釈次第では、この夜会が、ルソーを礼賛するためのものなのか、逆に侮蔑するためのものなのか、評価が百八十度転換する。ある意味歴史が変わるといってよい。来会者たちは泥酔していたということもあったらしいが、おなじ時間と空間を共有していたにもかかわらず、立場などによってそれに対する印象が大きく異なる。
後世になって書き記したということは、ルソー没後、彼の作品に対する評価が生前より高まっていたという状況のなかで、回想が書かれたのだろう。そうなると、時間の経過によるさまざまな条件の変化によって、あとづけの知識による記憶の変質(と文章による再構成)はじゅうぶんにありうることである。
原田さんの『楽園のカンヴァス』では、その夜会も印象深く描かれていた。こうなると、もう一度この長篇を読み直し、味わい直すしかないのではないか。19年前に出た本を大事に残したことで、思わぬ読書の愉しみが増えた。なお現在岡谷さんの本は、平凡社ライブラリーとして再刊され*4、そちらで入手可能のようである。