十数年来の宿望達成

音楽

まだ小林信彦さんの影響が続いている。一昨日、小林さんが紹介した三島由紀夫による久保田万太郎の追悼文を引き写しているうち、三島作品を読みたくなってきたのである。
いっぽう、新潮文庫の今月のフェア本(新カバー・改版)のなかに『沈める滝』が入っていて、未読ゆえ心動かされたのは数日前。『沈める滝』の女性主人公は冷感症(不感症)らしく、その連想で思い出したのは長篇『音楽』だった。これも未読ではあるのだが、新潮文庫版解説が澁澤龍彦であり、だいたいの内容は知っていたのである。澁澤による解説は『偏愛的作家論』*1(福武文庫)や三島由紀夫おぼえがき』*2(中公文庫)に収録されていて、たぶん前者のほうで卒読して以来だから、ざっと十数年の間この小説が気にかかりつつ未読のまま放っておいたことになる。
小林信彦三島由紀夫―『沈める滝』―冷感症という連想のつながりによって、ようやく『音楽』にたどりついた。雨の日曜日、『決定版三島由紀夫全集』第11巻*3を引っぱりだし、読み始めた。
本作品は精神分析医の症例報告書という体裁をとる。症例報告書にしては自身のプライベートな性体験が書いてあったりして違和感があるが、そこは問うまい。主人公は二十代半ばの美女弓川麗子。彼女は冷感症で、大学時代はボート部に所属していたスポーツマンで会社の同僚江上隆一が恋人だが、彼との性行為でもまったく感じない。この謎の美女に惹かれながら過去の体験の粉飾に翻弄され、回り道しながら冷感症の原因をつきとめてゆくというミステリ仕立ての小説となっている。
麗子の相手として、スポーツマンの恋人のほか、幼い彼女にほのかな性の快感を教えた十歳上の実兄、彼女を無理に犯して傷つけた許婚の又従兄弟、旅先のホテルで出会った不能者の若者が登場する。エピソードとして面白いのは、やはり冷感症の女と不能の男が出会って…というシチュエーションだろう。うまいなあと思う。
でも澁澤が本作品の欠点として指摘するように、この不能の青年は「麗子にさんざん利用されっぱなしで、第三十六章以後、まったく姿を消してしまう」のが残念と言えば残念だ。澁澤はこうした人物の出し入れを推理小説の常套的な筆法とやや似て」いるとする。読んでいて私が感じたのも、上記のごとくミステリ仕立てであるということであった。
タイトルの「音楽」がどういう意味かと言えば、主人公麗子が自らの冷感症たることを医者に説明するとき、会話は聞こえても音楽が聞こえないという症状をアナロジーとして説明することに由来する。「音楽」が聞こえるとき、麗子は冷感症を克服するというわけである。読む前は、もう少し冷感症と音楽の関連性が強いものだと思っていたのだが、あくまで音楽はレトリック、アナロジーにとどまり、物語の重要なキーワードではない。
物語の最後の舞台は山谷のドヤ街である。いちおう筋の流れとして必然性はあるのだが、何となく唐突な感じをまぬがれない。山谷の詳細な描写を読むと、三島は山谷を取材したくてこの小説を構想したのではないかと穿った見方をしたくなってしまうほど。
実際決定版全集の同じ巻に『音楽』の取材ノートも収録されており、そこには山谷を取材した記述がかなり細かくメモされていて、どの部分が小説に使われたのかわかって面白い。しかも、気のせいかもしれぬがそのメモが何とも楽しそうに書かれているような感じなのだ。
最後に、印象に残った一節。三島らしい大胆な見立てである。

女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。体全体にきらめく汗の滴を宿した……。(157頁)