詩人の東京散歩

月の十日

三好達治『月の十日』*1講談社文芸文庫)を読み終えた。三好達治なんて読むのは、中学校か、高校か、国語の教科書に載っていた作品以来ではあるまいか。昨年12月に新刊で出たとき、この本は紀行文集であり、なかに「東京雑記」という東京の散歩エッセイが収められていることを知り、購入した。ようやく今になって読むことを得たのである。
目当ての「東京雑記」は昭和25年の一年間、『芸術新潮』に連載された、まさに「散歩エッセイ」としかいいようがない連作随筆である。巻末の年譜を見るとこのとき達治は50歳、戦時中は福井県三国町疎開していたが、この前年に世田谷区代田に転居している。東京暮らしは十年ぶりのことだった。敗戦から五年経ってもなお焼け跡の残る東京の町のあちこちを歩き、戦後風俗を鋭く批評した特異な文章となっている。
さよう、これは「散歩エッセイ」と呼んで想起されるような荷風の「日和下駄」などとは少しおもむきを異にする。詩人ならではの繊細な言葉づかいで東京の町並を描写してはいるものの、読んでその空間が眼前に彷彿とするようなたぐいではない。
むしろ目立つのは一般的な東京論とはおよそ正反対の独特な考え方で、伝統的なたたずまいを無闇に称揚したりしない。「だいたい今日の常識から考えてみて東京の街は平べったすぎるのである」として、木造二階建てをやめ、殺風景でもいいから高層集団住宅が立ち並ぶのが理想的だとする。さすがにこの議論には驚く。
三好達治の東京歩きのスタイルは次のようなものである。

私はこの数年東京を離れることが稀れであった。机にむかって落ちつきよく落ちついているのでもなくて、別段所用もないのにこの大東京の最も変てこな感じに見えそうな部分を見当をつけておいて見て歩くことが、日課ではないまでもいくらかそれに似た風に私の時間と結びつくことが少くなかった。(204頁)
これは地方への紀行文「月の十日」の一節で、東京に戻ってしばらく経った昭和31年に書かれたものである。そんなぶらぶら歩きで三好は浅草などを頻繁に訪れる。
視点も斬新だ。戦後銀座の露店が市街の美観を害すると撤去されることに対し、
その頃は市街も唯今よりは余ほど立派であったが、市街の美観を害するなどとはいわれなかった。それがそこらの建築は遙かに安っぽく貧弱にけばけばしくなった唯今、反ってその美観を害することになった。(48頁)
と、露店ではなく、逆に銀座の町並の美観低下を鋭く指摘する。人と違った見方をせねば気がすまない、何か文句を言わねば収まりがつかない、そんな一言居士というか、天の邪鬼、ひねくれ者ぶりが楽しい。
本書は「東京雑記」のほか、日常雑感「燈下言」、連作紀行エッセイ「月の十日」、その他随筆四篇が収められている。これらにおいても、三好達治のひねくれ者ぶりは冴えている。もっとも、「カラスは俳諧味のある鳥である」という一文から驚かされる短文「カラス」(「燈下言」所収)や、中尊寺金色堂は見た目こそ美しいが実はグロテスクな文化遺産であり、「地方豪族の幼穉なエゴイズムの忘れ形見のようなものだ」とばっさり切って肝を冷やす思いの「月の十日」などを読むと、ひねくれ者などではなく、正直者なのではないかと思い直した。
三好達治の散歩エッセイ「東京雑記」のなかで他に類例を見ない面白さを感じたのは、三軒茶屋散歩の記(「薄暮の新緑」)である。なかなかこの時期の三軒茶屋を歩いた記録はないのではあるまいか。戦災で灰燼に帰し、この頃はバラックの雑然たる繁華街が形成されていたらしい。
いまの三軒茶屋キャロットタワーなどを中心としたお洒落な町というイメージであるが、先日散歩で訪れたとき、私はこの町の中心は意外にも昔ながらの雑然とした、かつ活気のある商店街なのだなあと感じたのだった。その直観が三好の文章で確かめられたような気がする。
三好は三軒茶屋の町をこうスケッチする。
まずひと口にいって、この三軒茶屋一帯は以上のべたようにただごみごみとした繁華地であるが、その建てこんだ一劃中に、ざっと私の数えただけでも凡そ八九軒ばかりの古本屋のあるのは、多少私には意外であった。(73頁)
現在の三軒茶屋の住人である坪内祐三さんは『東京人』200号(2004年3月号)のなかで、「町の給水場」としての古本屋がこの十五年で消えていったことを嘆いている。三好達治の頃の三軒茶屋の活気を想像し、坪内さんが住み始めたばかりの頃の三軒茶屋、そして現在の姿が三重映しとなって浮かび上がってきた。