駅前食堂の思想

東京暮らし川本三郎さんの新著『東京暮らし』*1潮出版社)を読み終えた。
同じ版元から出た『旅先でビール』*22005/11/13条)とつくりが似て(カバーイラスト小林愛美、装幀鈴木成一デザイン室)、内容的にも似た感じの文章が収められているから、姉妹編的なエッセイ集となっている。
しばらく前新刊案内サイトで本書の刊行を知ったはずで、それから時々版元潮出版社のサイトにアクセスしては出ていないかチェックしていたものの、何の音沙汰もなかった。それではあの新刊情報は幻だったのかしらんとそのまま忘れかけていたところ、たまたま帰途自宅最寄駅前の新刊書店に立ち寄ったら本書を見つけ、即購入したのである。以前ここでは『映画を見ればわかること2』も購っている(→2007/10/25条)。この本屋で川本さんの本を買う人間は、ひょっとしたら私だけかもしれない。
本書でも、散歩、書物、映画、ビール、銭湯、温泉など、川本ファンおなじみのテーマによるエッセイが存分に味わえる。これだけ川本さんの本を愛読してくると、「ああ、こんなふうな話、以前も読んだことがある」ということがないわけでないけれど、もとより好きな書き手の好きな話柄、あらためてじっくり読み込む。
ただ、同じ著者の本を系統的に読んでいるせいか、ひとつの本で語られたぶんにはそれほど強烈なイメージを受けなかったものが、強い印象となって残る場合があった。たとえば「禁止事項を作る」の一篇では、「「しない」ことを増やすことで、身を律する」として、自分に課している「しない」ことをあげている。
映画評ではランク付けや○×での評価をしない。映画の新聞広告でのコメントもしない。行きつけの店の紹介はしない。書斎も人目にさらさない。出版記念パーティもしない。「否定より肯定を批評の基本に」する。文章では流行語をなるべ使わない。「僕」という主語を使わない。
これらのうちのいくつかは、川本さんの愛読者であればすでにおなじみの考え方になっている。概して押しつけがましくない、別の一篇のタイトル「独りを慎む」にもあるように、いわば慎みの思想である。
しかしこれがわたしのような信奉者にとってみると、繰り返し説かれることによってさながらアジテーションのごとき様相を帯びてくる。自分も川本流を実践したくなる。でも、そのうち自分を見失うのではないかという恐ろしさに気づいた。
たとえそうであっても、川本さんのスタイルは憧れである。「駅前食堂のビール」というエッセイの冒頭部分。

 旅の楽しみのひとつは駅前の大衆食堂で飲む一本のビールではないか。
 列車を降り、駅前に昔ながらの大衆食堂を見つけると、まずはそこに入り、ビールを飲む。旅に出ると昼間からビールを飲んでもうしろめたい気持はせずにすむ。(96頁)
だから川本さんは、電車の乗り継ぎなどで時間に余裕があると、駅前に出て食堂を探し、簡単な酒の肴を注文してビールで一杯やる。駅前にそれらしい食堂がないと気落ちする。歩き疲れると大衆食堂の店構えが脳裏にちらつく。食堂に入りビールで喉を潤したい。ある旅のときなど、歩いてもそれらしい食堂が見あたらないので、タクシーで隣町に行き、そこでも散々歩いてようやく駅前に食堂を見つける。
ここからはわたしの話。先日20年ぶりに安土の町を訪れた。お昼時だったので、飾り気のない駅前食堂で川本さんのように食事したい。
安土駅前には、レンタサイクルを兼ねた食堂が数軒あるようだし、少し駅前を歩き回ればそれらしい食堂を見つけられたかもしれない。でも雪がちらつくような寒さで、時間も限られている。けちなわたしは、自転車も借りず、寒風吹きすさぶなか、田んぼの一本道を30分かけて博物館に歩いた。
おかげですっかり体が冷え切ってしまい、お腹もぺこぺこ。もう食べ物なら何でもいい。隣接する公共施設のレストランにあった「信長うどん」なるメニューを頼む(650円)。ふつうのうどんに餅と鶏肉二切れ、かまぼこに椎茸、ゆで卵半分が入ったもので、何が信長なのかわからないけれど、とりあえず身体は暖まり人心地ついた。
かくてわたしは川本さんのごとき“駅前食堂の思想”を実践するには、まだまだ経験と度胸が足らず、心にゆとりがない。10年早いというべきか。50歳になる頃には、自然にこういうことをやれる人間になるのが理想である。
ところで本書『東京暮らし』には、これまでの川本さんのエッセイ集に見られなかったような新傾向がある。『猫びより』という愛猫家の雑誌(?)に連載されたとおぼしきエッセイをまとめた「猫の尻尾に訊いてみる」を中心とした一連の猫エッセイである。
猫エッセイ自体は、これまでの川本さんのエッセイ集にも見られたが、本書ではご自身が住まいのマンションで飼っている老猫や、夜の散歩に立ち寄る公園でよく餌をやる野良猫のことが書かれる。
「猫の尻尾に訊いてみる」でほのぼのとした飼い猫たちとの交流を描いた直後、最後のパートである長篇連載エッセイ「青いインキに言葉をのせて」の最初の一篇「猫を見送る」では、その老猫が死んだことが書かれているように、ストーリー性があるのだ。
しかも同じマンションに住む幼稚園児の女の子「みっちゃん」が川本家の猫を大好きで、ときどき猫をなでに遊びに来る。猫を通した散歩先の公園での「猫の餌やり仲間」のおばさんたちとの交流や、「みっちゃん」との交歓を読んでいると、庄野潤三さんの最近の一連の小説を思い出した。