山藤章二の機知・頓知

論よりダンゴ

山藤章二さんの自選エッセイ集『論よりダンゴ』*1岩波書店)を読み終えた。本書はいろいろな媒体に書かれたエッセイを収めたという意味ではエッセイ集であるが、もう少しくだけて言えば「雑文集」でもある。山藤さんのイラストが好きで、おまけに雑文集好きなわたしとしては、これ以上の楽しい本はない。
雑文集とくれば「初出一覧」。初出一覧にずらりと並んだエッセイのタイトルと初出誌紙・発表年を見やり、「このエッセイはこういう媒体に書かれたのか」とか、「この年に書かれたのか」とひとつひとつ確かめるのが、“初出一覧好き”としての楽しみ方のひとつであるが、本書は巻末にまとめられているのではなく、一篇一篇のおしまいに付いているスタイルとなっている。
そのかわり、本書には山藤さんらしい仕掛けがほどこされてある。雑文集にありがちな、内容別に文章をまとめて章を分けることをやめ、内容にかかわりなくエッセイのタイトルをいろは順に並べてしまうという卓抜なアイディア。この方法は絶妙ではあるが、少々荒技であることもたしかだ。
というのも、収録予定のエッセイを並べても、すべてうまくいろは四十八文字に当てはまるとはかぎらないからだ。ここからが山藤さんの本領発揮、「乗りかかった船で後には退けぬ」(「まえがき」)という東京っ子の心意気、既存のエッセイのタイトルを変えたり、空いた文字を頭に付けたタイトルのエッセイを新たに書き下ろしたりして、見事四十八文字を埋めたのだった。書名も「論より証拠」「花より団子」といういろは歌留多で有名な成句ふたつを巧妙に組み合わせた。
本業のイラスト・漫画のこと、少年時代に見た芸能のこと、疎開・敗戦のときの苦労話、失われた東京の町の姿を嘆いたり、そこに跋扈する若者たちの言葉の乱れに憤ったり、現代社会に鋭い批判を投げかける。
これらの文章を貫いているのが、東京っ子としての気質なのだろうと思う。お盆の時期の閑散とした東京の町を散歩してこのような感想を漏らす。

 真夏の都心はかなり過ごしにくい。アスファルトの照り返し、ビル冷房の放熱、あいかわらずの人と車の過密で、吸い込んだ空気は熱くて重くて臭い。
 それが、お盆をはさんだ数日のあいだは様子が一変する。空は青く、道は広く、人はまばら。このときの都心はとても良い。
 〝地方からお出ましになった方々〟がふるさとへお帰りになると、東京はこんなにガラガラになるのかと毎年のように驚かされる。
 〝声がでかくてヤル気まんまんで控え目ということを知らない方々〟に出会わないというのが、こんなにもスガスガしいことかと、毎年のように再認識する。(36頁)
〝地方からお出ましになった方々〟に該当するわたしであるが、これを読んでも不思議に腹が立たない。むしろ「〝声がでかくてヤル気まんまんで控え目ということを知らない方々〟に出会わない」清々しさに共感をおぼえてしまう。
山藤さんは「私の死亡記事」のなかで、自らの人物紹介を次のように書いている。本書のいろは順という遊び心は、こうした「機知・頓知」に発していること間違いない。
青春期に「寄席」の空気をたっぷり吸った彼は、早くから現代人らしからぬ美意識を持った。粋・軽妙・洒脱・機知・頓知・皮肉、つまりは「江戸テイスト」である。
 そうした彼には、農耕民族の定住思想から発したであろう「この道一筋」信仰は、野暮に見えたにちがいない。(66頁)
東京っ子でありながら熱烈な阪神ファンという山藤さんの姿勢は、上のような「美意識」と一本の線でつながっているに違いない。〝地方からお出ましになった方々〟で巨人ファンであり、「寄席」の空気など知らない、およそ山藤美学と真逆の生い立ちであるわたしが、この山藤さんの発言に腹を立てず共感してしまう理由として、山藤さんが好む「江戸テイスト」を共有している、いや少なくとも爪のあかを煎じて飲んでいる程度の共通する志向を持っているということがあると自己申告することを許してもらえないだろうか。
…ところでいったいわたしは誰に向かって許しを乞うているのだろう。