落語の図書館のゆくえ

遊動亭円木

辻原登さんの文庫新刊・谷崎潤一郎受賞作『遊動亭円木』*1(文春文庫)を読み終えた。
本書は全10編の短篇からなる連作短篇集である。主人公は四十代(?)の若さで糖尿病にかかり視力を失った二つ目噺家遊動亭円木。彼は視力を失ったことをきっかけに噺家を休業する。小説は円木を中心に、彼のパトロン的存在明楽(あきら)の旦那やその愛人亜紀子さん、妹由紀とその夫綱木の夫婦、また妹夫婦が営む江戸川区小松川のマンション「ボタン・コート」の住人たち、そして遠く秋田象潟(矢島)の美女寧々さんらが織りなす飄逸にして幻想的な世界が展開する。噺家をめぐる小説ゆえに会話が小粋で俳味も感じられるいっぽうで、意外に骨があって読むのに難渋したというのが正直なところ。
志ん生文楽志ん朝といった実在の噺家の芸に言及され、また冒頭の一篇「遊動亭円木」が1997年大相撲夏場所三日目を見に行くというきわめて具体的な描写から始まりながら、読んでいくうちに思いがけずぽっかりと異世界への穴に突き落とされる。まるで円木がボタン・コートの住人たちによって金魚池へ突き落とされたように。
円木が突き落とされた金魚池は一度埋め立てられ、その後明楽の旦那の道楽によってふたたび造成された。本書は円木が金魚池のほとりにたたずむシーンで幕を閉じる。小松川という地は明治以来の金魚の産地だそうで、本書はその荒川べりの町もまた主人公のような重い役割を果たしている。小松川・平井辺を舞台にした小説なんて、そもそも珍しいのではあるまいか。
いっぽういまひとつ本書で重要な場所は象潟。円木の亡父の墓が象潟にある。その死と深い関わりがある立花の娘寧々と円木は縁あって結ばれる。象潟という地は江戸時代地震により海面が隆起し、松島と並び称された名勝の景観は失われた。金魚池が復活するのとは対照的である。
地震といえば円木は地震を予知する。予知した地震は大きくなかったけれど、円木が由紀らと鳥海山の麓の温泉地に泊まっていたとき、彼らは地震に見舞われる。金魚と水と地震、そんなキーワードが小松川と象潟という二つの地理的ポイントと絡み合う。
先に大相撲夏場所という具体的な描写から物語は始まると書いた。一見幻想めいた物語にひょいとこうした歴史具体的な小道具が挿入されるところが何ともうまい。円木のお気に入り力士が剣晃だったり、「探偵」では円木の「この世で、五番目に好きな小説」カルヴィーノの『木のぼり男爵』だったり、「金魚」では寿司屋で見知らぬ男から「きいてごらんなさい」と手渡されたテープが土方巽の肉声談話だったり、私はこんな小道具にくすぐられてしまうのである。
本書の解説は堀江敏幸さんで、なるほど言われてみると堀江さんもまた物語のなかに歴史具体的小道具をもぐり込ませる名手であって、そこに二人の共通点があるとおぼしい。堀江さんは本連作がなぜ読者の身に沁みるのかという理由を次のように説明する。

円木の「底意がない、悪意がない」その飄々としたたたずまいの影に、なんとも言いしれぬ破壊衝動と、破滅への鋭敏なアンテナがひっそりと埋め込まれてもいるからである。(「解説 忘れたり、思い出したり……」)
堀江さんによれば、その後の作品集『約束よ』*2(新潮社)に収録されている短篇二篇で、死の淵にあった明楽の旦那の病気が回復し、円木は見事真打に昇進して、「作中人物のひとりをして、志ん朝と枝雀亡きあとはもうこの円木くらいしかいない」とまで言わしめているのだそうだ。
最後の一篇「べけんや」のなかで、今に残る約二千の噺をすべて憶えて「落語の図書館」になると宣言した円木師匠のゆくすえを読むのが楽しみになってきた。