寄席に行くかわりに

笑いの狩人

先日の昼休み、湯島天神境内の梅を見にぶらぶら出歩き、そのまま足を上野広小路まで伸ばした。鈴本演芸場の前を久しぶりに通ったら、落語を聞きたいという気持ちが勃然とわき上がってきた。林家こぶ平林家正蔵襲名がもうすぐで、そういう機会でもないとなかなか寄席に入るきっかけがないのである。職場から歩いて近いというのに、疲れた身体を寄席にあずけ、笑うことでストレスを発散しようと頭が働かなかったのが不思議だ。空間にひたれば自然笑いが出るだろうし、笑えば心が軽くなるだろうに。
もちろん、「どれひとつ今夜は鈴本にでも」と気軽に立ち寄れるほど木戸銭が安いというわけではないのが、大きな理由としてある。歌舞伎であれば毎月最低一度、2500円を出して見に行き、その程度の本をためらいなく買うこともある。けれども鈴本に入るため3000円を出すということになると、躊躇せざるをえない。価値観の相違と言って片づけてしまえる問題ではあるが、反面で行きたいという気持ちもあるのだから、「それならなぜ行かぬ」という心の葛藤に苦しめられることがときどきある。
寄席に行けぬかわりというわけでもないが、噺家についての本はなるべく集め、読みたいとは思っている。ブッキッシュにと割り切るつもりでもないが、落語に関する本を見るとほうっておけないのだ。
長部日出雄さんの『笑いの狩人―江戸落語家伝』*1新潮文庫)もそんな一冊。いつぞやとある古本屋で出会った。このときは、1000円の値がつけられていたので手を出しかねた。またいつの日か、別の古本屋で安く見かけたとき、「買い」だなと心にメモした。その後荻窪ささま書店で本書を400円で見つけたので、勇んで購入したのである。
本書は江戸時代、その時代時代に落語に対し大きな功績をあげた噺家五人についての評伝小説集である。「江戸落語事始」は落語の祖といわれる鹿野武左衛門、「落語復興」は落語中興の祖三笑亭可楽、「幽霊出現」は怪談咄の祖林家正蔵、「天保浮かれ節」は名古屋で流行していた都々逸を江戸で花開かせた都々一坊扇歌、最後の「円朝登場」は言うまでもなく三遊亭円朝を主人公にしている。
インフルエンザで寝込む前(いまから二週間近く前)に読み終えたので、中味をだいぶ忘れかけているが、読みはじめれば物語にすぐ惹き込まれ、堪能したから、面白かったということなのだろう。
解説は矢野誠一さんだから、これまた申し分ない。

しかも、最後に登場する三遊亭円朝を真打に見立てれば、そのまえの「ひざがわり」と称する位置に、都々一坊扇歌という落語家ではない色物芸人を置くあたり、これはそのまま寄席の番組構成で、それこそ心憎い配慮なのである。
という指摘はまさにそのとおりで、矢野さんからこう言われるのがまた嬉しい。表紙は山藤章二さんであって、これまたこの人以外に適任の人はいない。いまのマイ・山藤本ブーム以前に購入した本で、たまたま読もうと積ん読の山から掘り出したら、「この本も山藤さんか!」と嬉しい偶然に驚いたのだった。