旅のなかの平凡な日常

旅のなかの旅

紀行文を書くことはむずかしい。読むだけの立場でいたときにはそんなことは思いもしなかったのだけれど、ホームページで「平成日和下駄」と題する町歩き(町歩きルポも一種の紀行文だろう)の記を書くようになると、そのむずかしさを痛感した。
町歩きでの見聞を書く。単純そうであるが、実際は一筋縄ではゆかない。ただ時間の流れにそって、この道を通りあそこに行った、何を見た、どこが気になった、そんなことを漫然と書き流すのは、子供が絵日記をつけるのと変わりがない。書いているうちそういう書き方しかできないことに気づき、書くのが苦痛になってくる。
時間の流れにそうだけの直線的な叙述は、書くほうですら苦痛なのだから、とても読めたものではないだろう。だから、“紀行文の名手”と言われる人(山口瞳さんもその一人だ)にあらためて尊敬の念を抱くし、紀行文がうまい人は文章の書き方もうまい人なのだと思う。文章能力だけでなく、訪れた場所、そこで見たものや遭遇した出来事などの情報をうまく整理・按配して、効果的に伝えるという編集能力も不可欠となる。
もとより紀行文を書くという目的をもって旅をしたり町歩きをするということであれば、素材を得るため、旅の間は感覚を鋭く研ぎ澄ませておくという心の準備ができる。でもそうでない場合、あるいは、意に反してごくごく平凡な旅に終始した場合、その様子をいかに記述するか、書き手の力量がはっきり問われることになる。
だから、山田稔さんの長篇紀行『旅のなかの旅』*1白水uブックス)を読み、あらためてその散文の素晴らしさにしびれたのであった。本書はパリに二年間日本語教師として滞在したおりの紀行文である。
こう書くと誤解を与えかねない。パリ滞在に関する紀行文ではないからだ。拠点としていたパリから離れ、ギリシア・モロッコスコットランドへ身軽な手荷物だけで出かけたときの紀行文が三部構成になっている。日本からパリへの外地研修が旅の第一段階だとすれば、そこから別の国に出かけることは第二段階の旅であるし、その旅のなかで、見知らぬ人と出会い、ふだんの自分ならばおよそ考えられない行動をとる、それもまたある種の旅(第三段階)である。本書の紀行はそんな重層的な旅の様相を呈する。

今日、旅の話を書くのはむずかしい。活字でも、映像でも旅行ものはあふれている。珍しい風習の紹介、スリルに富んだ体験談。そのどれにもないもの、旅のなかの平凡な日常、そしてその日常と空想、妄想のからみあいを描く、というのがわたしの狙いであった。(「元版あとがき」)
こんな意図のもと、旅における「平凡な日常」がユーモアを含んだ筆致で記録される。いや、旅そのものがすでに非日常であり、著者もそれを十分認識しているとおぼしいから、書かれることはすでに日常生活と同次元での「平凡な日常」ではなくなっている。旅という非日常の時空のなかで、「平凡な日常」を過そうという意識がいかに変型されてゆくのか、そんな意識の細かな揺らぎが、見事な文章でうつしとられる。
ギリシアの旅で出会った、著者と同じCクラスのコースで旅をする若い女性。彼女の紹介で訪ねることになったアテネのある家庭。非日常に片足を突っ込んでいるからこそできる、見知らぬ家への訪問。ためらい、戸惑いながら、あえて非日常に飛び込む。ふだんの自分でなくなる感覚…。
ただそれを書くだけで紀行文としての紙幅が尽きてしまうような、大きなトラブル、不可思議な出来事、奇矯な旅仲間に出くわしたわけでもないのに、これほど読ませるのは、旅という非日常のなかにも「平凡な日常」があるはずという信念に似た確信があって、それと「平凡な日常」からズレてゆく自分との間合いがうまくとれている、そんな山田さんの姿勢によるのだろう。
本書が白水uブックスに入ったのは2002年7月。山田さんの本を新書判というハンディなかたちで読めることを喜びつつ購入したものの、なかなか読む機会が訪れなかった。せっかく『旅のなかの旅』と題された本なのだから、自分も「旅」の渦中にあるときに読もうという、芝居じみた考えで読むのを先延ばしにしていたのだ。
出張のたびに本書を携えるかどうか迷いつつ、二年半が経過し、ようやく今回の出張で読むことができた。その嬉しさの反面、好きな著者の未読の本が一冊減ってしまった悲しさも、ないではない。