しゃべくり独演会

殿山泰司のしゃべくり105日

これだけ毎日のように夕刊フジ連載本に執着していると、夕刊フジ連載本かどうかのカンも研ぎ澄まされてくる。生島治郎さんや高橋三千綱さんの本がそうだった。古本屋に入り、それっぽいタイトルの本に目をつける。ページをめくってみて目次が二段組みでびっしりつまっていれば可能性大。100回連載なのだからタイトルが100はあるはずで、必然的に目次は二段組みで組まれざるをえない。
いま「それっぽいタイトルの本」と書いた。「男」とか「女」といった単語があると、いかにも「それっぽい」。でも、より直接的に、「百」という数詞が書名に入っているのがもっとも可能性が高いということに遅まきながら気づいた。
わが書棚を見回せば、「百」の入った文庫本があるではないか。そういえばあの本、目次が二段組みびっしりだったような。さっそく書棚から抜き出し確かめてみたら、なあんだ、この本もそうだったのかと、「灯台もと暗し」という言葉が頭をよぎる。小林信彦さんの『笑学百科』*1新潮文庫)がそれである。
同書の「文庫版のためのノート」を見ると、「ぼくの前の連載が色川武大氏の「ぎゃんぶる百華」だったので…」とある。『ぎゃんぶる百華』*2(角川文庫、阿佐田哲也名義)であれば去年読んだ(→2004/2/6条)。そのおりの感想をふりかえってみると、ちゃんと同書が夕刊フジ連載であることが書いてある。芋づる式に2冊見つかったわけだ。小林さんや色川さんも夕刊フジに連載しているかもしれないとは思ったけれど、これといった本を見つけられないでいた。それが一冊は既所持、一冊は既読だったとは。
これで興に乗り、さらに夕刊フジ連載本がないものか、あれこれとネットで探す作業に没頭した。すると見つかったのが、殿山泰司さんの殿山泰司のしゃべくり105日』*3講談社)である。さっそくネット古書店に注文し、一読した。夕刊フジ1984年1月から5月まで連載された文章をまとめた本だ(原題「三文役者いろ艶ぴつ」)。書名のとおり105日にわたって連載されたもので、毎回南伸坊さんのかわいいイラストが付いている。
マネージャーに呼び出され、スタジオやロケ現場に駆けつけて、チョイ役の撮影をこなす。仕事を終えたらまた無職渡世に逆戻りする。そんな「三文役者」の日常と、昔ひんぱんに通った遊廓や盛り場の思い出、軍隊生活の嫌な思い出が交錯する。ミステリを読み、浅草を歩いてなじみの店に入りビールをなめる。処女作の「無責任放言録」(→2004/11/9条)の頃は酒をガブガブあおっていた殿山さんだが、それから約20年を経た本書の頃は糖尿のため断酒中。酒はビールをなめるだけ。ガブガブにせよ、なめるにせよ、なぜか殿山さんが飲むお酒はおいしそう。
本書では遊廓の思い出話が興味深い。よく通った玉の井や亀戸の私娼街の話は、実体験が伴っているだけに生々しく具体的で、ある意味「資料」ともなるべき記述になっている。たとえばこんな玉の井・亀戸比較論。

私娼街亀戸は玉の井にくらべるとグンとスケールも小さく、娼家の構造と娼婦のお値段はほとんど同じであったが、その屋並は迷路ではなくて直線的であり、あの特有の匂いもそれほど強烈ではなかった。そして、おかしな言葉だけど、インテリ臭くなかったのよ。(…)そうか、つまりやな、客筋がちがってたんだ、亀戸は労働者向きであったともいえる。(126頁)
木村聡『赤線跡を歩く』*4ちくま文庫)によると、戦前亀戸には玉の井に比肩する銘酒屋街(私娼街)があって、「昭和三年発行の『賣春婦論考』によれば、商人など裕福な階級が多かった玉の井に対し、亀戸は労働者や勤め人の若い客が中心で、家の構えも玉の井のほうがややさっぱりしていたとある」(46頁)と説かれており、殿山さんの回想に符合する。それにしても玉の井を「インテリ臭かった」と表現するのは、実際にこの町に足繁く通い雰囲気を肌で知っている殿山さんならではのものだろう。
殿山さん独特の語り口による105日分の「しゃべくり」。独演会をたっぷり聞かせてもらったという軽い疲労感を、読後に味わっている。