病の記憶の残る本

魔法の石板

昨年の11月中旬出張先で風邪をひいた。ホテルの部屋が乾燥していたため、喉をやられたのである。
そのうえ東京に戻ると精神的に辛い仕事が待ちかまえていて、12月初頭のある出来事がきっかけで左胸・肩・背中・腕に重い痛みが走り、加えて喉の詰まりを感じるようになった。あまりにひどいので病院に行ったところ、ストレス性のものと診断され、胸・背中・肩に対して整形外科的治療を、また漢方薬などの投薬治療を受けた。もともとストレスには弱い性質なのだ。
その後胸などの痛みは解消したものの、年末年始を経ても喉の詰まり・痛みはとれない。風邪から数えると喉の異常は一ヶ月半に及ぶ。厭な予感に苛まれ、起きている間中不安で仕方なくなった。身体に異常を感じると、それらをことごとく死に直結させてしまい、一人鬱々と悩むのが私の悪い癖で、今度も咽頭喉頭癌ではないかと疑ったのだった。
とうとう我慢ができなくなり耳鼻咽喉科で診てもらったところ、やはり杞憂であった。「咽喉頭異常感症」というちょっとした喉の異常に敏感になってしまう症状か、「胃食道逆流症」という消化器関係の疾病であるという可能性を指摘され、胃潰瘍のときに出される薬を処方された。
胃だとしたら潰瘍というのはありうる話である。もとより胃は強いほうではない。いっぽう前者の「異常感症」というのは、やはり一種の神経的な病だろう。いわゆる「ヒステリー球」なのかもしれない。そう診断されると喉の詰まりがとれたような気がするのはいかにも単純で、われながら苦笑せざるをえない。
堀江敏幸さんの『魔法の石板―ジョルジュ・ペロスの方へ』*1青土社)を読み終えた。本書はフランスの詩人・文学者(といちおう呼んでおく)ジョルジュ・ペロスの生の軌跡を書簡や作品からたどった、堀江さん一流の散文作品(帯には「長篇エッセイ」とある)である。本書のなかで堀江さんは、「評伝」や「批評」たることをあらかじめ拒否している。
私は本書に触れるまでジョルジュ・ペロスという人物を全く知らなかった。買ってから読むまでが遅くなった理由のひとつである。情けないことに本書を読んでも、ペロスという文学者の良さがわからない。主著に『パピエ・コレ』(貼り紙)という断片をつなぎあわせたような作品三冊(うち一冊は没後刊行)がある。私は断章好きだから、引用された断片だけでなく、これら断片のつながりをまとめて読めば、少しは理解できるのかもしれない。
堀江さんはペロスによって生み出された断片をこのように評価する。

断片を生産しはしても、それらは《公正さ》からはずれまいとする大きな言説の破片であって、「覚え書き」の下にはゆるぎないペロスの、彼がそうと意識していない確かな思想があるのだ。(247頁)
体裁こそ断片であっても、それらはすべてペロスの思想に裏打ちされている。その思想とは、なかなか要約しにくいのだが、本書によく登場する言葉で言えば「詩」「孤独」なのだろうか。
パリを離れブルターニュ(見返しに地図が印刷されているけれど、フランスのどの部分なのかわからないのが情けない)の漁師町に住まう。自分の作品には徹底して冷淡で、自著を突き放して愛着をもたない。最初の著『パピエ・コレ』ですら、当初は刊行を渋っていたほど。そんな狷介な一面もある。
本書で取り上げられた人物や思想が今ひとつ自分の感性にあわなくとも、序章「取り逃がした詩の影」のなかにあるこんな一節を目にしただけで、堀江さんの本を読んでいるという満ち足りた気持ちになった。
古書店であれ新刊書店であれ、店主の姿勢や誠意は、遠方からの注文に応じたときの梱包ひとつでわかるものだ。箱の強度はもとより、中身がずれたり傷んだりしない材の選択、ガムテープの貼り方、宛名書きの文字、貼られた切手の枚数とバランス、送られてきたつつみはそれらがすべて着実に処理されており、しかも店主直筆の手紙が添えられていた。(9頁)
このいかにも堀江さんらしい文章を目にし、惹き込まれた瞬間、読み手は本書を読み通すことを保証される。
ところで冒頭なぜわが身の体調不良について臆面もなく晒したのか。実はペロスの命を奪ったのは咽頭癌であった。彼は澁澤龍彦と同じく、手術で声を失った。最初の手術の直後、声を失った彼が周囲の人間とコミュニケーションをとる手段として使ったのが、タイトルの「魔法の石板」なのである。
小型の固い板にぴたりと張られた蝋紙のシートのうえから付属ペンで文字を書き、まちがえたりいっぱいになったりしたらそのシートをゆっくりはがす。すると文字が消えて紙はもとにもどり、何度でも書きなおせるという仕掛けである。(226頁)
今でも子供のおもちゃとしてこの仕組みの文字板は使われている。フランス語で“ardoise magique”(アルドワーズ・マジック)、訳して「魔法の石板」。堀江さんがいうように、他愛ない道具ながら「美しい言葉」である。
ちょうど喉の詰まりを感じて癌の影に怯えていたとき、咽頭癌で亡くなった人物に関する本を読んでいた。なんてタイミングが良すぎる(あるいは悪すぎる)のだ、縁起でもない、と開いていたページを思わず閉じてしまった。
ひとまず異常なしの診断があって、客観的にペロスの物語を読み終えることができたわけである。堀江さんには申し訳ないが、ゆえに本書はペロスという人物の作品・思想というよりも、自分の体調不良と結びついて思い出す本になるだろう。

*1:ISBN4791760786