旅のお供に大満足

猫の舌に釘をうて

小林信彦さんの『読書中毒―ブックレシピ61』*1(文春文庫)を読んだ直後、出張にでかけることになっていたわけだから、志向は当然物語に向けられており、車中読書に何を選ぶか、例によって今度もはなはだしく迷った。
同書を読んで気になった作家を選ぶのが、もっともストレートに欲求を満足させることになるだろう。バルザックハイスミスといった外国作家はともかく、第一候補となるべきは谷崎潤一郎と小林さん自身の作品である。
“読み惜しみ体質”のわたしとしては、エッセイと小説というジャンルの違いはあるにせよ、連続的に同じ著者の本を読むことは好まないので、小林さんの本はまず除外する。そうすると残るは谷崎。前々から読みたいと思っていた二長篇が頭に浮かぶ。『鮫人』と『神と人との間』だ。いずれも中公文庫の「潤一郎ラビリンス」のなかに入っている。前者はずいぶん前に読んだことがあり、後者は未読。
谷崎作品はいったん話のなかに入り込むと、一気に最後まで読ませる力がある。とくに『鮫人』はそんな物語だったような気がする。ただ入り込めるかどうか、入口でいつもためらってしまう。そんなわけでまたしても谷崎をパスすることにした。いつの日か『神と人との間』を読みたいものだ。
で、広瀬正鏡の国のアリス』も考えた。ただしこれまた“読み惜しみ体質”でパス。出発時間が迫りつつあるなかで、ええいと選んだのは、積読山地「都筑山」の山頂に置いてあった一冊、都筑道夫コレクション《青春篇》 猫の舌に釘をうて』*2光文社文庫)だった。これなら、物語志向をも満足させる作品に違いない。
『やぶにらみの時計』につづく都筑さんの第二長篇にあたるのが『猫の舌に釘をうて』で、この作品は「私はこの事件の犯人であり、探偵であり、そしてどうやら、被害者にもなりそうだ」という風変わりにしてとてつもなく魅力的な一文から始まる。このことが嘘偽りなく物語のなかで展開してゆくから、すごい。
長篇の一ページ目を開いて「おや」と思うのは、フォントである。ふつうの明朝体でなく、「教科書体」のようなフォントで印刷されている。併収の短篇以下は明朝体だから、これは何か意図があるに違いないと読み進めていくうち、疑問が氷解した。
本作品は、都筑道夫『猫の舌に釘をうて』という本の束見本(中が白紙になっているもの)に、書き手たる「私」が事件のあらましを日記体で綴っていくというスタイルをとっているのだ。つまり書き文字を意識したフォントということになるのだろう。初版やこれまでの版ではどう表現されていたのか、興味がある。いずれにせよ、こんなタイポグラフィカルな趣向も凝らされ、さすが都筑道夫! と読む気持ちも弾んでくる。
本格ミステリだからこれ以上ミステリとしての内容に触れることはしないが、そうした要素を取りのけても、この作品を愉しむことができる。《青春篇》と名づけられた巻に収められているように、作者の体験をモデルにした、甘酸っぱい失恋の経験を描く恋愛小説でもあり、『やぶにらみの時計』(→1/18条)同様都市東京の情景が克明に描き込まれ、そこにも魅力がある。
文庫版に収録されている平安書房版あとがきには、次のような執筆意図が記される。

『猫の舌に釘をうて』は、書きおろしの長篇で、昭和三十六年の六月に東都書房から、東都ミステリイという新書判のシリーズの一冊として、出版された。それで、同年の三月から四月にかけての事件にしてあって、そのころの風俗ができるだけ取入れてあるが、主人公の生活ぶりには、昭和二十七、八年の私の生活が投影している。淡路瑛一という主人公の筆名は、当時の私の筆名のひとつだった。(544頁)
たしかに作中には、主人公の「私」たる売れないミステリ作家淡路瑛一の師は正岡容であるといったことも書かれてあった。
さて、やはりわたしとしては昭和三十年代の東京風俗の描写に惹かれるのだ。主人公が一人暮らしをする大塚坂下町あたりの風景。近くの商店街は「大阪寿司の折をひらいたみたいに、低い家なみがぎっちり建てこんだ」通りとなっている。「大阪寿司」にピンとこないわたしだが、何となくイメージできてしまう。
主人公が失恋したのちも恋心を抱きつづけるヒロインの家は小石川伝通院の近く、小石川表町にあり、ちかくに沢蔵司稲荷がある。ということは露伴蝸牛庵のすぐそばというわけで、それもちゃんと説明されてある。主人公が大塚に越してくる前に住んでいたのが中野区上高田で、林芙美子吉良上野介墓所のある功運禅寺の近くだったとある。
さらに殺される人物の家があった場所が葛飾の本田渋江町という、あまり馴染みの薄いところ。なんと四ツ木の近くなのだ。主人公は必要があってそこを訪ねることになり、新宿からタクシーに乗って四ツ木に向かう。そのルートや通り道の風景描写も、過去の回想シーンを織り交ぜながら細かく書かれている。
到着した目当ての場所がこんなふうにスケッチされていて、しびれてしまった。
瀬戸物屋は昔ふうに、道路に台をつきだして、五郎八茶碗や貯金玉の擬宝珠や招猫を、つみあげている。私はそれを、ひっくりかえしそうになりながら、少年たちをよけて、歩きだした。巨大な共同便所のような映画小屋をすぎると、低い長屋づくりの二階家が、目についた。そのあいだに、一間ばかりの小路がある。といっても、上には二階があって、下だけが吹きぬけになっているのだ。左右の家は、ガラス障子のなかが道路より低めの板の間になった古めかしいつくりで、吹きぬけの上の二階が、どちらに所属しているかは、わからない。たしか夢想櫺子という、二重窓がぴったりしまって、煮しめたような羽目板の内がわには、過ぎさった時代だけが、眠っているのかも知れない。(109頁)
「巨大な共同便所のような映画小屋」とか、最後の一文など、モノクロームの映画の一シーンのように浮かび上がってくるようだ。川本三郎さんは『東京人』連載の「ミステリーと東京」で都筑道夫に触れてくれないものだろうか。
帰りは何を読もう。この『都筑道夫コレクション《青春篇》』には、『猫の舌に釘をうて』に加え、初文庫化という短篇集『哀愁新宿円舞曲』(1974年)が完全収録されている。かの郷愁を誘う連作短篇集『東京夢幻図絵』(→2004/12/13条)に近い味わいの短篇集らしい。これを読むしかないだろう。この文庫本は至れり尽くせりの編集ぶりで、とっさに選んだにしては、素晴らしい「旅のお供」になってくれた。