わが遺骨はオリオン座に

新星座巡礼

秋から冬にかけての季節、夜空を見上げそこにオリオン座を見つけると、またこの季節になったか、また一年生きることができたかと、嬉しくなる。
それとともに、オリオン座を見ると小学生の頃を思い出す。冬、通っていた算盤塾から出るとすっかりあたりが暗くなっている。私の住んでいたところは山形市の外れの外れだったため、星の光を邪魔するものがなにもない。夜空を見上げ、オリオン座や北斗七星などを飽かず眺めながら帰途についたものだった。
その頃たしかに「星座オタク」予備軍だった。もっとも、望遠鏡で夜空を眺めるというたぐいではない。やはり文系的なのだなあ、関心はギリシャ神話に向かっていた。星空を構成する星座の背景にある物語にすっかり魅せられていた。図書館からギリシャ神話の物語本を借り出し読みふけっていたのだ。
星空の記憶で言えば、もうひとつ忘れられないことがある。仙台に住んでいた頃、流星群(ペルセウス座?獅子座?)が「大豊作」の年があったように思う。流れ星を飽きるほど眺めてみたい、そんな気持ちで、妻と二人車に乗り、仙台市の北にある泉ヶ岳という山に登った。ここの中腹にはスキー場があって、夜更けにもかかわらず、行ってみるとスキー場の駐車場は大勢の人でごったがえしていた。皆が皆夜空を見上げるというある意味不思議な光景。見上げているうち首が痛くなったのだろう、寝ころがって見る人もいる。
車を降り夜空を見上げてびっくりした。「空にはこんなに星があったのか!」と。仙台や山形の田舎で見ていた星空と違う。まさに満天の星空。それまでの30年近く、あんな星空の下で暮らしていたことに気づかなかったのが惜しかった。たくさんの流れ星を見ることができたのはたしかに嬉しかったけれど、このときの印象としてはむしろ、この「ただの夜空」のほうが強い*1
「星の翁」野尻抱影は、真冬の夜空に輝く全天第一の一等星シリウスについて、こんなことを言っている。

この星を見ず知らずに生きている事は人間の幸福をむざと捨てることである。
この言葉は、処女作を後年改訂した『新星座巡礼』*2(中公文庫BIBLIO)にある(26頁)。まったく同感だ。東京に暮らす息子たちがシリウスばかりか、空に一面の星が瞬いていることを知らずに育つかと思うと、それだけで東京に住んでいることが申し訳ない気持ちになる。
野尻抱影の本を読むと、いつも、星空を眺めているときのような清々しい気持ちになる。そのみずみずしく詩情にあふれた文章に接すると、自分が宇宙の片隅に偶然生をうけたちっぽけな存在であることを知り、生きていることを感謝したくなる。夜空の星の光が、実は何千年何万年も前の光であることを想像し、めまいがする。いまだに時々ふとそんな想像が頭にわいてきて、眠れなくなることがある。抱影の本を読むことは、そんな自分の枯れかかった想像力をよみがえらせるいいトレーニングなのかもしれない。
本書は1月から12月まで、一年間日本の夜空に見える星座を解説し、その背景にある神話を簡単に説明した概説的な内容である。それでも文章にみなぎる詩情はわたしたちの想像力をいたく刺激する。とにかくスケールが大きいのだ。
私は蠍座だから、蠍座のアルファ星アンタレスが大好きである(でもしばらくこの眼で見ていないなあ)。そのアンタレスを解説した文章の一節。
望遠鏡で見ると、アンタレースは更に重星で、緑色の七等星が附いています。もし、この二つの太陽に属する惑星があるとすれば、その住民は真紅の太陽と濃緑の太陽とを天上に仰ぐことになるでしょう。(82頁)
アンタレスは120光年の先にある赤色巨星。アンタレスを太陽とする惑星系を想像し、さらにその一つの惑星に住む住民に思いを馳せる。この見事な想像力。
解説の松岡正剛さんによれば、抱影の遺言は「ぼくの骨はオリオン座にばらまいてほしい」というものだったという。好きだった海にまいてほしいというのとはこれまたスケールが違う。抱影のオリオン座に対する偏愛は本書の至る所に記されているが、死に関するエピソードでいまひとつ面白い話があった。
抱影は法名を南魚座の中国名である「北落師門」にしようと思っていた。「字の響もいいし、淋しげな印象にも相応しい」から。ところが一足先にこの名前を墓に刻むよう遺言して亡くなった人がいることを知った。一足違いと悔やんだが、「心の中では相見ずに終った星の友人の霊に頭を下げずにはいられなかった」(99頁)。こんな文章があるから、ときどき抱影を読みたくなるのである。

*1:ここまで書いたところで、以上の思い出話は、旧読前読後2001/6/18条でも書いていたことに気づいた。3年半前から多少記憶がねじ曲がり、印象が違っているのがわれながら面白い。やはりこのときも抱影の文章を読んで書いたものだった。抱影と言えば、私はこの思い出なのだ。

*2:ISBN:4122041287