石坂洋次郎作品との相性

「河のほとりで」(1962年、東宝
監督千葉泰樹/原作石坂洋次郎/脚本井手俊郎加山雄三/星由里子/山村聰淡島千景草笛光子加東大介東野英治郎乙羽信子小林桂樹池内淳子有島一郎沢村貞子田辺靖雄/小川安三

「メモリーズ―我が心の日本映画」は日本映画専門チャンネルのリクエスト企画である。和田誠さんによるタイトルロゴが素敵だ。
さて今回の「河のほとりで」は視聴者リクエスト。映画が始まる前、フジテレビ阿部知代アナウンサーがリクエスト・メッセージを読む。それによれば、リクエストした方は、子供の頃この映画を観たのだが、それまで「若大将」シリーズで清純なカップルを演じていた加山雄三・星由里子コンビが初めてキスシーンを演じるということで話題になり、学校では鑑賞禁止映画に指定されたのだという。
それでもこの映画を観たかったので、初めて校則破りをして映画館に足を運んだところ、同じような年代の子供が(たぶん同じような思いで)たくさん観に来ていたのだという。それゆえにとても印象深い映画なのだそうだ。
個人的に記憶に残る映画としてリクエストされたものの、同様の動機で観に来た子供が多かったということから、この映画を取り巻く状況が社会的意味を帯びてくる。やはりこれもただたんに映画を観ただけではわからないことである。
ではなにゆえ「禁止映画」となったのか。もちろん二人のキスシーンもあるだろう。加山雄三の母淡島千景と、星由里子の父山村聰はかつて夫婦だったが、淡島の又従姉妹にあたる草笛光子山村聰とできてしまい、淡島は身を引く。星(と弟の田辺靖雄)はその後生まれる。不倫がストーリーの鍵を握るわけだ。
淡島はその後加東大介と結婚して加山らを生み、熱海で旅館を営んでいる。その淡島が偶然旅客機のなかで山村と隣同士になったところから映画は始まる。淡島を空港に迎えに来ていた加山に山村は会い、偶然娘星と同じ大学の学生であることを知る。
加山と星は違う学部で、お互い顔は知っていたが話はしたことがないという関係だったが、その後直接知り合うようになり、意識しあう関係になる。
衣服を着たまま泳ぐめぐり合わせとなった加山・星は、さながら「潮騒」のように、濡れた下着まで脱いで、お互い全裸になって海辺で語り合う。このあたり想像力がいたく刺激されゾクゾク(ついでにいえば、淡島・乙羽が二人で温泉につかるセミヌード場面もある)。服を着たまま泳ぐようなことになったのも、加山が以前、母の旅館で帳場を仕切っていた年上の女性池内淳子と「寝た」ことを正直に告白し、星がそれを不潔だと詰ったため。
ことほどさようにこの映画は、山村聰淡島千景も、草笛光子加山雄三池内淳子も(池内淳子は加山との性関係を、自分に求婚する小林桂樹に告白する)、みんな真っ正直なのである。隠し事をせず、過去の性関係も赤裸々に告白して恥じない。いかにも石坂洋次郎的と言うべきだろうか。
真っ正直さは、山村の家に寄生する元華族東野英治郎と、彼の内縁の妻でバーのマダムをしている乙羽信子の結婚式シーンに顕著にあらわれる。歳も歳なので秘かに教会で式を挙げたいという二人だが、せめて介添人だけは若い人をということで、加山と星が介添人に選ばれ、小さな教会で式を挙げる。
牧師が有島一郎。その妻が沢村貞子。当然何か起こらずにはおかない。有島が宣誓文を読みあげていると、東野がそれに異議を唱える。「妻を慕う」ことはできないというのだ。東野は牧師の発する「妻を慕う」という言葉の虚妄性を糾弾し、オルガンの前に座る沢村に対し、夫から口汚く罵られるようなことはないのかどうか、あるならばオルガンの高音の鍵盤を、なければ低音の鍵盤を叩いてくれと要求する。
すると牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、無愛想な沢村貞子は、黙って高音を弾くのである。この映画でもとびきりおかしな場面。何も言えない牧師有島一郎に向かい東野は水戸黄門のごとき呵々大笑をして、牧師さんが実行している程度の「慕う」ならばできると、宣誓文を復唱するのである。このあたりの正直さに笑いつつも、違和感をおぼえる。
登場人物たちことごとくがこうした行動をとり、優等生な発言を繰り返すので、正直観ていて恥ずかしくなるというか、照れくさくなり、しまいに閉口してしまう。加山雄三と星由里子のような(といってもわたしは「若大将」シリーズはほとんど記憶にない)まじめな清純派に、このような石坂洋次郎的性モラルが充満したホームドラマを演じさせると、どうにも生々しい。
これがたとえば、日活で石原裕次郎北原三枝芦川いづみが演じると、そんな臭みを感じないのだから不思議だ。演じる俳優の個性の違いなのか、社風の違いなのか。
とはいえ星と加山の「初」キスシーンでは、加山が顔にかぶさる直前、星はひょっとこのようなしかめっ面をして唇を突き出す。このシーンだけ生々しさがなく、そんな表情の星由里子がキュートなのであった。